(旧)えいがのはなし

映画に対する感想を自由にまとめたものなのでネタバレを含むレビューがほとんどです。未見の方は注意してください!

「夫婦を超えてゆけ」の意味とは?「逃げ恥」大ブレイクの理由をテーマから考える

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真田丸」と並んで2016年最大のヒットドラマとなった「逃げるは恥だが役に立つ」。ミーハーな僕も話題になり始めた3話あたりから視聴を始めて徐々にハマっていきました。先週最終話を迎えて、すっかり"ロス"状態です。

振り返ってみると大ヒットの要因は様々にあったと思います。流行の発端はやはり「恋ダンス」でしょうか。ガッキーがとても可愛いと話題になり、みんなこぞってYouTubeの公式動画を見ました。ポッキーのCMといい、ガッキーはつくづく踊りに縁のある女優さんです。(むしろ作り手はポッキーのブームを再現しようとしていたのかもしれません)。覚えるにはちょっと難しい振り付けも練習意欲を刺激されます。これまたみんなこぞってYouTubeなどの動画サイトにダンス動画をあげていました。口コミが強くブームをけん引したことはたしかでしょう。

しかしガッキーが可愛いだけではドラマは成り立たないし、ましてこれ程大きなムーブメントを起こすこともありません。視聴率も第1話から一度も息切れをせず、常に右肩上がり、最終話の視聴率は第1話のほぼ倍でした。つまり、「恋ダンス」ブームに乗っかって見始めた視聴率の心を最後まで掴んで離さず、テレビに釘付けにさせた面白さがこのドラマにはあるのです。ではこのドラマはどこが面白く、何が幅広い層を夢中にさせたのか。その原因を考えてみようと思います。

 

平匡さんの初恋、みくりさんとのすれ違い恋愛

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主人公のひとり、津崎平匡は35歳まで恋愛経験ゼロ、童貞を貫き続ける自称"プロの独身"です。彼が家政婦として雇ったもうひとりの主人公、森山みくりはなんとしても仕事を確保したいがために"契約結婚"を提案、二人は仮の"夫婦"生活を始めることになる…というのが主なあらすじ。そして雇用主と家政婦のお金の関係だった二人の距離がじりじりと縮まり、恋をしていく過程がこのドラマの肝です。

星野源演じる平匡さんの不器用だけど可愛さも同居した素朴なキャラクターと、ガッキーのコメディ女優としての才能がたっぷり注ぎ込まれた、一生懸命なのにどこか抜けてるみくりのキャラクター。この二人のケミストリーは抜群でした。二人とも自分のうちにある気持ちに気付き始めているのに、その気持ちが伝えられない、相手の考えていることがよくわからない…だからこそ、ちょっとしたことで飛び上がるほど嬉しくなったり、とてつもなく悲しい気持ちになったり。契約結婚の味付けによって「お互い片思いだと思っていた」というすれ違い恋愛の王道が、緊張感あるラブコメディーに昇華されているのです。

また、見方を変えればこの恋愛は平匡さんの(本格的な)初恋だと言えるのではないでしょうか?彼の過去の恋愛歴はあまり深く語られませんが、ここまで真剣に誰かに好意を抱き、その気持ちに向き合ったのは、おそらく初めてでしょう。そんな初めてだらけで受け身がちの平匡さんと積極的(半ば強引)にアプローチするみくりのすれ違い恋愛を指す「ムズキュン」は言い得て妙でした。平匡さんとみくりさんが二人の間にある障害を一つずつ取り除きながら距離を縮めていく様に視聴者の親心(?)はくすぐられ、思わず応援したくなったはずです。

 

ビター&スイート…風見さんとゆりさんの恋

ここまでのおさらいではハンパなく甘ったるいメロドラマに見える「逃げ恥」。しかし、じつは"スイート"にとどまらない"ビター"要素を練りこむことで上手く偏りを避けています。平匡さん&みくりのペアが"スイート"だとすれば、"ビター"は風見さん&ゆりさんのペアです。

風見さんのゆりさんに対する頑張りはどことなく悲壮感が漂い、切ないです。お互い大人だから相手の気持ちにも気づいているし、無理に関係を深めて傷つけないようにと牽制し合っています。平匡さんとみくりがすれ違いとは理由が違います。彼らのすれ違いは「相手の本心がわからない」からです。なので見ている方もアンジャッシュのコントを見るように「そうじゃないよ!」とツッコミを入れながら楽しめます。一方、風見さんとゆりさんは相手の好意はわかっているし、それを受け止めています。風見さんのアプローチの仕方はそれなりに露骨でしょう。「相手の本心がわからない」から悩むのではなく「相手の本心がわかっている」からこそ悩むのです。風見さんはイケメンであるが故に軽く思われてしまい、なかなか女性と真剣に付き合うことができないことに困り、ゆりさんは自分が風見さんの相手になるにはあまりに年を取り過ぎているとネガティブに考えます。大人だからこそのすれ違い…シュガーレスの恋愛ですね。スイートの裏にビターが伏流しているからこそ、二組のカップルのエピソードは補完的な役割を果たしあい、ドラマ全体の完成度を非常に高いものにしています。

 

それぞれが向き合う呪縛

平匡さん&みくり、風見さん&ゆりさんの両ペアのもどかしい恋の駆け引きから「逃げ恥」の最重要テーマが浮かび上がります。それは自分で自分を罰してしまう呪縛の存在です。この"呪縛"はシリアスの程度に差こそあれ、キャラクター全員に与えられています。

たとえば平匡さんは"プロの独身"を自称。自尊感情の低さをある程度自覚し「こんな自分に好意を抱くわけがない」とみくりさんの好意を最初から受け付けません。これが呪縛です。「童貞」の呪いです(こじらせてるとも言います)。彼は自分で自分の可能性を制限しています。

みくりの場合はどうでしょうか。彼女の呪縛は物語の最後で一気に表面化します。仕事に家事に大忙しで余裕がなくなってしまった彼女は大好きな平匡さんに辛く当たってしまい、自己嫌悪に陥るのです。相手を理屈でやり込め、余裕がなくなれば感情的になってしまう、可愛げのない「小賢しい女」の呪縛は、みくりを徹底的に追い込みます。

先ほど指摘した通り、風見さんは「イケメン」ゆえに損をし、ゆりさんは「高齢」を気にしてこと恋愛に関しては引っ込み思案です。ゆりさんの部下の柚は「帰国子女」であることを言い訳にしたくないがため必要以上に自分を苦しめていました。同じくゆりさんの部下であるナツキはゲイであるために想いを寄せる相手と会うことができません。呪縛というと少々言い過ぎかもしれませんが、沼田さんは上司ゆえに葛藤し(そして彼もまたゲイです)、やっさんはシングルマザーとして仕事に子育てに大奮闘していました。 

それぞれの性格、立場、生き方…異なる背景から生ずる問題が臭くなりすぎない程度にさりげなく、しかし切実に描かれています。各々のエピソードを大きなストーリーの流れに組み込み、単なるモブではなくしっかり人格のある人間として存在感を与えているところにこのドラマの巧みさを感じます。

 

「小賢しいって何ですか?」

「逃げ恥」はすれ違い恋愛のハラハラドキドキを駆動力に物語を進めつつ、一人ひとりの呪縛を少しずつ解いていきます。

まず風見さんとゆりさんから考えてみましょう。二人は関係を深める中、共同作業で呪縛から解放されたように思います。風見さんが「イケメン」なせいで真面目なお付き合いまで発展しないという悩みは、ゆりさんが"甥っ子"なんて冗談めかしつつもしっかり対等に向き合ってくれたことで緩和されていきます。一方のゆりさんもまた「高齢」であるがゆえに風見さんを"甥っ子"とからかい、一定の距離感を保とうともがくわけですが、最終的には沼田さんの後押しもあり、風見さんの熱烈な誘いに根負けします。風見さんとハグをしたそのとき、やっと彼女は「高齢」の呪縛から解放されたのです。

もっと言うと、じつはその前に"ポジティブモンスター"五十嵐と対決?した際の会話で知らず知らずのうちに自らの呪縛を解いています。

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非常に印象的なのでそのまま引用しました。これが呪縛からの解放という「逃げ恥」の最終的なゴールに直接繋がっていることがわかると思います。

このことを踏まえた上で、平匡さんとみくりのケースを考えてみましょう。平匡さんの呪縛を解くのはみくりです。彼女は平匡さんを好きになり、雇用主と労働者の関係に悩みながらも、猛烈にアプローチし続けます。結局、こうしたみくりからのアクションが平匡さんの「童貞」の呪いを解くことになりました。みくりの「好き」の告白でやっと彼は救われるわけです。

みくりが平匡さんに与えた自己肯定感は、最終的に彼女自身を救うことになります。平匡さんの訳のわからない結婚のプロポーズを断り、改めて「共同経営者」として平匡さんとの関係を再出発させたみくりですが、余裕がなくなるにつれ自分の悪いところが見えてきて自己嫌悪に陥ります。これまで表面化していなかったけど、じつはストーリーの深いところでマグマのようにフツフツと煮えたぎっていた「小賢しい」の呪いがここにきて一気に噴出するのです。最終的に全部が嫌になって風呂場に篭ってしまったみくり。そこで平匡さんが救いの言葉を投げかけます。

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この言葉にみくりは助けられ、もう一度頑張ってみようという気持ちになります。平匡さんはいまの幸せがみくりのおかげだと知っているからこそ、こんな優しい言葉をかけられたわけです。情けは人の為ならず、ですね。

しかし「小賢しい」の呪縛の真の解決はこの後の場面です。最終話のラスト、登場キャラクターが全員集合し、みくり企画のお祭りを楽しむ場面。お祭りの盛況っぷりを見てみくりは「小賢しいからこそできる仕事もあるのかもしれません」と言います。

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それに対して平匡さんは「小賢しいって何ですか?」と答えます。

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彼は続けて「言葉の意味はわかります。小賢しいって、相手を下に見て言う言葉でしょ。僕はみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったこと、一度もありません」と言います。

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みくりはこの言葉を聞き、思わず平匡さんに抱きつき「ありがとう…大好き」と呟きます。平匡さんが純粋で素朴だからこそ出た「小賢しいって何ですか?」の言葉。おそらく彼自身は特にみくりを慰めて、という気持ちはなかったでしょう。しかし、みくりはこの何気ない一言で全ての呪縛から解放され、救われたのです。一方、この場面の直前にナツキと沼田さんの恋愛の問題も(彼らにしかわからない形で)解決されます。全てのキャラクターが呪縛から救われたところで「逃げ恥」は幕を閉じます。

 

他人をジャッジしない「逃げ恥」の優しさ

「逃げ恥」を「呪縛からの解放」という目線から読んでみました。しかしこれが一面的でしかないのは重々承知しています。「契約結婚」というワードを通して結婚を相対化、ケア労働の無償提供の矛盾を突く社会派ドラマとしても読めますし、多くの男女を思春期から苦しめるロマンチックラブイデオロギーの硬直を批判する題材にしてもいいでしょう。しかし僕はもう少し「呪縛からの解放」というテーマを深掘りし、「逃げ恥」のより普遍的な価値について考えたいと思います。

そもそも「逃げ恥」がなぜここまでヒットしたのか。それは、とかく性別や立場や年収で分断されてしまう殺伐とした現代社会において、全ての個性を丸ごと包み込んでくれる優しさを終始貫いているからです。みくりも平匡さんも、誰だって自分なりに積んできた人生経験があり、それによって価値観や性格を育み、その積み重ねとして社会的地位を得てきています。すなわち、一人ひとりに大切な人生があり、その全てに意味があるということなのです。「逃げ恥」は誰かの人生を否定したりしません。たとえ奇妙なすれ違いに面白さを見出しても、それは馬鹿にした笑いではありません。どこかポジティブで温かいのです。「あいつはあいつで一生懸命に生きてるんだな」の一言で全てを肯定する前向きさがあります。

たとえば、平匡さんはこれまでずっと独身だったけど、彼なりの道を歩んできました。ゆりさんだって平匡さんと同じように独身を貫いてきたけど、その選択が間違いだったとは思っていないはずです。会社で頑張って働き続け、高い社会的地位も得ました。世の中の女性の励みになりたいと願い、じっさいに多くの同僚や部下たちの憧れの的になっています。今さらになって子供が欲しくなったり、必ずしも後悔がないとは言えなくても、彼女は自分の人生に誇りを抱いています。

それを偉そうに上から目線でジャッジしたりしないのが「逃げ恥」の素晴らしさであり、美しさだと思うのです。「逃げ恥」において、呪縛は自分で自分にかけるものです。他人からの呪縛は、偏見であり、その人のパーソナリティの否定につながってしまいます。登場人物の悩みが自己否定による束縛の結果であることが、この論においては大事になってきます。平匡さんもみくりも風見さんもゆりさんもナツキも柚もやっさんも…みんなが苦しんでいる問題に対して他の登場人物が直接批判の言葉を浴びせたり、好奇の目で見たり、という描写はほとんどありません。唯一の例は五十嵐がゆりさんの年齢を面と向かって悪く言う場面ですが、これはメッセージを伝えるために設置された描写でしょう。そもそも五十嵐の言葉をゆりさん自身が跳ね除けます。これがそのまま自分を呪いから解放する宣言にもなっていることは、先ほども指摘した通りです。

 

「二人を超えてゆけ」の意味

ここまでの論をまとめると、みくりや平匡さんが呪縛から解放される様を通し、一人ひとりのパーソナリティの価値を肯定する作業が「逃げ恥」の肝なのだと言うことができます。"呪縛"は"常識"と読み替えてもいいかもしれません。「みんな違ってみんな良い」のであり、社会のしがらみや"常識"に縛られて必要以上に縛られることはないのだ、という力強いメッセージがこのドラマにはあります。

ここまできってやっと「夫婦を超えてゆけ」の意味がわかるのです。このフレーズ、表面的には「契約結婚」を指していることが明らかですが、この後の「二人を超えてゆけ」「一人を超えてゆけ」まで視界に見れてみれば、自ずと意味が変わってきます。つまり「夫婦を超えてゆけ」「二人を超えてゆけ」の並びは、みくりと平匡さんが"結婚の常識"に挑戦し、やがて本当にかけがえのないパートナーとしてお互いを認め合っていく過程を暗示したものであり、「一人を超えてゆけ」は社会のルールや常識といった呪縛からの解放を表現したものなのです。

 

最終話のラスト、みくりが平匡さんとのさまざまな結婚のスタイルを想像し「きっとどの道も素晴らしいものになる」と締めた後のエンディング曲「恋」はこれまでと全く違った曲に聴こえました。あまりにも気持ちのいい終わり方だったので、続編のことは考えたくありませんが、もしあるならぜひ風見さんとゆりさんで「ムズキュン」したいです(やっぱり終わってほしくない)