あなたは「哭声 / コクソン」のなにを"信じる"か
(この記事はツイッターで書いた感想のまとめです)
ジャンル横断的な作品なのでひと言では形容しがたいですね。混沌とした作品の中、あえて軸を探すとすれば「父の娘に対する愛情」と「信じる/信じないの境界線」の二つはブレなく最初から最後まで一貫しているでしょう。今回は特に二つめの「信じる/信じない」の境界線に注目し「パラノイア」「ヒステリー」という捉え方で「哭声」を解釈してみようと思います。
まず「父の娘に対する愛情」は言わずもがな、主人公ジョングの一貫した行動原理のことです。前半は警察官の制服を着て事件を捜査。娘が狂いはじめてからは、その原因を探るため、祈祷師にすがったり、山の上の男を襲いに行ったりと、どんどん暴力的になります。どこかすっとぼけた印象の前半とは打って変わって泥まみれのシャツで血にまみれた戦いに執心することになるけど、「娘を守りたい」という気持ちに変わりはありません。
次に「信じる/信じない」の境界線。これは本作の中心テーマになってくきます。はじめ、ジョングは村の噂を信じません。よそ者の日本人がすべての事件の元凶らしい、という根拠のないゴシップに最初は耳を貸さないのです。しかし、徐々に事件に連続性が見えはじめ、娘がおかしくなりはじめると、彼は祈祷師に頼るようになります。物語が真相の深い部分に近づくにしたがって、事件はよりオカルトに、スピリチュアルに見えてきます。だから見ている方としても何がなんだかわかりません。最後は國村隼が悪魔で登場!無秩序にすら思えてきますね。
「哭声」はジョングの「信じる/信じない」のボーダーラインがだんだん下がっていく物語なのだと思います。はじめは悪霊の存在を疑っていたジョングは、それっぽい証拠がたくさん出てくるにしたがい、徐々に真実であると信じてしまいます。たしかに「哭声」の世界では祈祷師の儀式も、悪霊の存在も、どうやらホンモノらしいです。中途半端な儀式の結果、中途半端に復活した中途半端なゾンビも出てきましたね。しかし、それは観客の目線で説明された「事実」であり、ここにはもっと大事なことがあります。それは、ジョングが悪霊の存在を信じて最終的に殺人まで犯してしまったという唯一の「事実」です。「俺は警察官だ。娘を守る」と語る平凡な父親が、よそ者の排除に躍起になって大きな過ちを犯してしまったのです。ざっくりまとめれば、「哭声」はジョングが山の上の男が悪霊であるという「パラノイア」に取り憑かれて「ヒステリー」を起こしてしまったお話なのではないでしょうか。
自分がこの感想を抱くに至ったのは、作中にいくつかそれを補強するモチーフが散りばめられていたからです。その筆頭が「宗教」だ。すでに多くの指摘がある通り、「哭声」はキリスト教的価値観や聖書のエピソードがベースになっています。さらに「祈祷師」の存在、毒キノコの健康被害というもっともらしい「科学的根拠」、雷に打たれても助かったのは「漢方のおかげ」とする女性の発言。どれも、どこに「信じる」基準を置くかで、事実の見え方が変わるということを表しているのではないでしょうか。基準がぶれるからこそ混乱するし、一度それだと決めてかかるとそうとしか見えなくなってしまう危険性があります。谷城(コクソン)という外の世界も見えない閉鎖的空間で、犯人を決めつけ村八分まがいの暴力を働いたジョングの愚かさは、決して人ごとではないと感じます。
ここからは余談です。韓国(日本もだし、韓国に限らないことだけど)のネット社会は時に陰湿で過激な方向に暴走することがあります。苛烈なバッシングを受けたタレントが自殺に追い込まれたケースもありました。最近のネット社会の「正義」の乱暴っぷりが、「娘を守るため」と言って確固たる根拠もなく異邦人をリンチしたジョングの過ちに重なります。「呪い」や「悪霊」なんて目で見て確認できないんだから…とジョングを冷めた目線で批判することもできるけど、「信じたいものを信じる」姿勢はイマドキの話題にも繋がるんじゃないかなあ、まさしくポストトゥルースの態度なんじゃないかなあと、取り留めもなく思ってみたり。