えいがのはなし

映画に対する感想を自由にまとめたものなのでネタバレを含むレビューがほとんどです。未見の方は注意してください!

あなたは「哭声 / コクソン」のなにを"信じる"か

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(この記事はツイッターで書いた感想のまとめです)

 

ジャンル横断的な作品なのでひと言では形容しがたいですね。混沌とした作品の中、あえて軸を探すとすれば「父の娘に対する愛情」と「信じる/信じないの境界線」の二つはブレなく最初から最後まで一貫しているでしょう。今回は特に二つめの「信じる/信じない」の境界線に注目し「パラノイア」「ヒステリー」という捉え方で「哭声」を解釈してみようと思います。

 

まず「父の娘に対する愛情」は言わずもがな、主人公ジョングの一貫した行動原理のことです。前半は警察官の制服を着て事件を捜査。娘が狂いはじめてからは、その原因を探るため、祈祷師にすがったり、山の上の男を襲いに行ったりと、どんどん暴力的になります。どこかすっとぼけた印象の前半とは打って変わって泥まみれのシャツで血にまみれた戦いに執心することになるけど、「娘を守りたい」という気持ちに変わりはありません。

 

次に「信じる/信じない」の境界線。これは本作の中心テーマになってくきます。はじめ、ジョングは村の噂を信じません。よそ者の日本人がすべての事件の元凶らしい、という根拠のないゴシップに最初は耳を貸さないのです。しかし、徐々に事件に連続性が見えはじめ、娘がおかしくなりはじめると、彼は祈祷師に頼るようになります。物語が真相の深い部分に近づくにしたがって、事件はよりオカルトに、スピリチュアルに見えてきます。だから見ている方としても何がなんだかわかりません。最後は國村隼が悪魔で登場!無秩序にすら思えてきますね。

 

「哭声」はジョングの「信じる/信じない」のボーダーラインがだんだん下がっていく物語なのだと思います。はじめは悪霊の存在を疑っていたジョングは、それっぽい証拠がたくさん出てくるにしたがい、徐々に真実であると信じてしまいます。たしかに「哭声」の世界では祈祷師の儀式も、悪霊の存在も、どうやらホンモノらしいです。中途半端な儀式の結果、中途半端に復活した中途半端なゾンビも出てきましたね。しかし、それは観客の目線で説明された「事実」であり、ここにはもっと大事なことがあります。それは、ジョングが悪霊の存在を信じて最終的に殺人まで犯してしまったという唯一の「事実」です。「俺は警察官だ。娘を守る」と語る平凡な父親が、よそ者の排除に躍起になって大きな過ちを犯してしまったのです。ざっくりまとめれば、「哭声」はジョングが山の上の男が悪霊であるという「パラノイア」に取り憑かれて「ヒステリー」を起こしてしまったお話なのではないでしょうか。

 

自分がこの感想を抱くに至ったのは、作中にいくつかそれを補強するモチーフが散りばめられていたからです。その筆頭が「宗教」だ。すでに多くの指摘がある通り、「哭声」はキリスト教的価値観や聖書のエピソードがベースになっています。さらに「祈祷師」の存在、毒キノコの健康被害というもっともらしい「科学的根拠」、雷に打たれても助かったのは「漢方のおかげ」とする女性の発言。どれも、どこに「信じる」基準を置くかで、事実の見え方が変わるということを表しているのではないでしょうか。基準がぶれるからこそ混乱するし、一度それだと決めてかかるとそうとしか見えなくなってしまう危険性があります。谷城(コクソン)という外の世界も見えない閉鎖的空間で、犯人を決めつけ村八分まがいの暴力を働いたジョングの愚かさは、決して人ごとではないと感じます。

 

ここからは余談です。韓国(日本もだし、韓国に限らないことだけど)のネット社会は時に陰湿で過激な方向に暴走することがあります。苛烈なバッシングを受けたタレントが自殺に追い込まれたケースもありました。最近のネット社会の「正義」の乱暴っぷりが、「娘を守るため」と言って確固たる根拠もなく異邦人をリンチしたジョングの過ちに重なります。「呪い」や「悪霊」なんて目で見て確認できないんだから…とジョングを冷めた目線で批判することもできるけど、「信じたいものを信じる」姿勢はイマドキの話題にも繋がるんじゃないかなあ、まさしくポストトゥルースの態度なんじゃないかなあと、取り留めもなく思ってみたり。

「僕らはみんな生きている」

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バブルで日本の経済は絶好調、カネにモノ言わせて日系企業は海外の資産を買いあさっていました。自分はまだその頃生まれていなかったけど、ジュリアナ東京で肩パッドのお姉さんが踊り狂っている映像を見るだけでも、みんな調子乗ってたんだな、ということはわかります。あしたはきょうより豊かで幸せだと無邪気に信じられた日本で最後の時期だったのかもしれません。

 

当時、日本は官民一体となって海外ODAを積極的に行なっていました。そこで日本のサラリーマンたちは現地の特攻部隊として、貧しく何もかもが足りない国で一生懸命営業しました。時には役人に取り入って黒い関係を結んだことでしょう。でもそんなに頑張って何をやったかって、自分たちの企業の利益になることしかやってません。純粋にその国の発展のために尽くそうと思っていた人もたくさんいたでしょう。しかし、日本の海外ODAのやり方が我田引水だという批判を受けてきたのは、歴史的事実です。

 

そういう日本人がいちばん調子に乗っていた頃のサラリーマンを、バブル崩壊後の冷静な目線でイジメまくったのが「僕らはみんな生きている」です。

 

主人公は4人の駐在サラリーマン。東南アジアの小国で、政府高官に賄賂を送ったり、媚を売ったり、とにかくどんな手を使ってでも案件を取ろうと必死に働いていました。そんな彼らは突如蜂起したゲリラ軍と政府軍の戦いに巻き込まれ、ジャングルに逃げる羽目になります。二本のサラリーマンがスーツ姿で泥まみれになりながらジャングルを徘徊する姿はシュールで、ちょっぴり笑えます。彼らは現地人たちを「土人(正確にはなんだったか忘れた)」とかなり見下していたので、因果応報です。ので、悲壮感はありつつ、いい気味にも思えるんですね。ここらへん、やっぱりこいつら調子乗っているな、という感じです。だけど、いまは中国や韓国に押され気味で日本の企業にも元気がないから、すこし切なくも思ったり。時間が経って醸し出される新しい味わいですね。

 

過酷なサバイバル経験を通して丸くなってきた日本のサラリーマン軍団は、物語の終盤、森の奥地で出会った村人たちと、ほとんど会話が通じないにもかかわらず、心を通わせます。なに言ってるかわからないけど、なんか楽しい、向こうも嬉しそうにしている。牧歌的な彼らのおおらかさにしばし心を許します。しかし、それもつかの間、政府軍が村を爆撃して、彼らを虐殺してしまいます。あまりに酷い現実に打ちのめされるサラリーマンたち。富田ら3人はそんな状況からも命からがら抜け出します。しかし、中井戸を一人残して。

 

3人は一度はそのまま帰国することを考えますが、結局、中井戸を助けに反政府ゲリラのアジトに「商談」を持ちかけます。政府軍の無線を盗聴できる機械と中井戸の身柄の交換を条件に交渉を持ちかけますが、なかなかうまくいかない。万事休すかと思われた時、若手の高橋がヤケクソになって叫びます。「おまえたちは天皇の顔を知らなくても、ソニーや三菱の商品を知っているだろう。みんな日本のサラリーマンが全人生を賭け、命削って戦ってきた成果なんだ。でも、いくらそんなことにエネルギーを注いだって、定年退職後には何も残らない。日立で働いていた親父は毎年300通の年賀状をもらっていた。それが、定年後には7通だ。親父は273通のために全てを捧げてきたのに」…と。悲しすぎます。でも、これが現実なのかもしれません。日本人は、結局会社の肩書きとそれが書かれた名刺でしか生きられないし、戦えない。極端ですが、ジャングルに放り込まれたら、そんなの意味ありません。豊かさを追いかけて一生懸命「仕事」に精を出してきた日本人が、バブル崩壊にぶち当たって感じた絶望や喪失感を、この映画は背負ってるんじゃないでしょうか。戦争に負けて全部失った日本人が、やっとの思いで取り戻した自信を再び失うことになった辛さ。たいていの庶民は会社にせんぶ捧げてやっと「普通」の人生を手に入れられるんだという、どうしようもない現実。それでも「僕らはみんな生きている」んですね。諦めにも近い現状肯定が、妙な明るさをもって描かれている、ちょっぴり意地悪な映画でした。

「ゴッド•ヘルプ•ザ•ガール」

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サントラを聴いていたら、なんとなくこの映画に対する不満みたいなものが再びぶり返してきたので、今さらだけど少し書き残しておきます。

 

「ゴッド•ヘルプ•ザ•ガール」は心を病んだ女の子がバンドを結成し、メンバーとの心の交流を通して立ち直っていく物語です。ストーリーの細かい部分は忘れましたが、そんなことはどうでもいいのです。彼女の成長の描き方は、一本調子で抑揚もあまりありません。ぶっちゃけ退屈です。ナラティブの稚拙さに関しては、これが監督の長編映画初挑戦であること、それから、そもそも物語そのものにあまり力を注いでいないことからも、気にせず全体像さえ掴めればいいものかと思います。

 

本作の良さは、ガーリーでポップな世界観にあります。どこかレトロで懐かしさを感じさせるファッションと音楽に、思春期のようなちょっとの痛々しさを味付けに加えたオシャレな空間がスクリーンを満たします。ときどき挟まれるミュージカルシーンもまるでミュージックビデオのようです。とにかくそのビジュアルと空気感を大切にしている作品であり、それは実際多くの人の心に響いていたと思います。僕もこの点に関しては非常に満足していました。

 

しかし、ひとつだけ不満な点があります。しかも致命的です。それは、タイトルナンバーの「ゴッド•ヘルプ•ザ•ガール」を本編中フルで流してくれないこと!たしかに主人公が作成したデモテープに収録されたこの曲が流れるシーンはあるのですが、途中で切れます。クライマックスでもう一回聴けるのかと思ったら、そんなこともなく、けっきょくエンドクレジットでも流れません。予告編でも印象的だったこの曲を劇場で聴くことがほとんどこの映画を見る目的にしていた僕にとって、これほどガッカリなことはありません。ヒーローは登場したら名乗るべきだし、必殺技も叫ぶべきだと思っているタイプの人間なので、こんなの絶対許せません。やっぱりモヤモヤしますね。僕に作り直させてほしいです。

 

ベン•アフレック初監督作「ゴーン•ベイビー•ゴーン」

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監督ベン•アフレック、主演ケイシー•アフレック。アフレック兄弟によるサスペンス映画です。非常に素晴らしい作品だったので、少しだけ感想を残しておきます。

 

サスペンスと言いつつ、この映画の面白さは人間の描きこみにあります。作品を見た人が読んでいることを前提にしているので詳細は省きますが、真犯人の少女誘拐の動機は、善意によるものでした。あの母親では娘が幸せになれないからこっちで引き取ってやるという、言ってしまえばかなり独りよがりの善意ではあるのですが、しかし、ラストにアマンダの母親が娘のことほったらかしでデートに出かけてしまう様を見ると、なんだかそれも間違いではないように思えてきます(彼女は初めから母親失格として描かれていますが)。この事件に関わった二人の警官は真実を隠すために死に、スケープゴートとして利用されたマフィアも殺されてしまいます。ある意味、彼ら(特に警官二人)はアマンダのために死んでいったとも考えられますね。

 

しかし、主人公のパトリックは彼らに対する「情」よりも「法」「秩序」を優先します。クライアントであるアマンダの母親に対する義務もあったことでしょう。一見すると正義を貫いたかのように思える彼の選択ですが、最後に示されるその結果は、必ずしもそうとは言い切れないとも思わせます。

 

つまり、どっちを選んでも正解ではないという、非常に残酷でモヤモヤする終わり方になっているわけです。そしてそこから浮かび上がる真実は、誰かの善意=正義ではないということ。善意も正義も相対的なものでしかないし、この世界ではどの善意を選択しても正解にはならないことがあるという、すごく意地の悪い、しかし、避けられない真理を突きつけきます。うーん…つらい…。

 

ちなみに「ゴーン•ベイビー•ゴーン」というタイトルですが、2つの意味があるのではないかと考えます(英語に強くないので、あくまで推測ですが)。まず、失踪した女の子という意味。「ゴーン•ガール」と同じ捉え方です。そして、結局事件の終わらせ方で仲違いし、別れることになってしまったアンジー、すなわち「パトリックのもとを去ったベイビー=愛しの女性」の意味です。英語に詳しい方で文法的にこうだろう、という意見のある方はコメント欄にリアクションしてもらえたら幸いです。

「フレンチアルプスで起きたこと」

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こんかいは「フレンチアルプスで起きたこと」について。スキー旅行にやって来た家族が分裂の危機に陥り、なんとか落とし所を見つけていくまでを描くコメディ?映画です。

 

レストランで昼食中に雪崩にあった父、母、姉、弟の4人家族は、父親のとったあまりにもガッカリな行動により、「頼れるパパ」を失ってしまうところから話は始まります。要するに、家族を放っておいて父親のトマスは一人で逃げてしまったんですね。挙句、怯える家族の元へ戻って来ても、知らん顔で「どうした?なんか問題でも?」とシラを切り通す始末。「認識の違いだ」とかなんとか屁理屈をこねくり回して、自分の非を認めようとしません。

逃げたのは反射的な行動だし、父親の威厳が地に堕ちるとしても、さっさと素直に謝っておけばたぶん大ごとにはならなかったでしょう。しかし、母親として人一倍責任感の強い、真面目なエバは、そんな父親の態度に失望し、とても悩んでしまうのです。信じがたいほど間抜けな言い訳を繰り返すので、母親の方もリアクションがヒステリックさを増していきます。

緊張感が最高潮まで高まったとき、アバはトマスに客観的な証拠を突きつけます。トマスのプライドはボロボロ。次の朝、トマスは家族と離れて1日を過ごし、勘違いでイケメン扱いされて傷ついたり、ノリも合わないのに若者の乱痴気騒ぎに加わってみたり、すこしずつみじめな気持ちが蓄積され、最終的に泣きます。完全に子どもです。男として、夫として、父として、プライドを捨てます(というか維持できなくなりました)。完全に心が折れます。エバの方も「やれやれ」といった感じで、なんとか一応の着地点を見つけることで、この事件はひとつのゴールを迎えます。

笑ってしまったのが、ラストのバス事件。空港?に向かう下山のバス、あまりにもたどたどしく下手くそな運転にエバが大騒ぎし、バス内はパニック状態に。結局みんなで下車して徒歩下山になるわけですが、いつまでも山道は続くし、夜は近づくし、なんとなく「バスに乗っておけばよかった…」という後悔が漂い始めたところで話は終わります。なんという、意地悪な終わり方でしょう。結局、エバも母親としての責任感ゆえなんでしょうけど、ヒステリックなところがあるというか。きっとトマスも内心あきれてるんでしょうけど、雪崩で逃げた前科があるのでお互い様なんですよね。男、そして父親であるがゆえにちっぽけなプライドを守りたがり、母親であるがゆえに不安に苛まれ、ちっぽけなことで大騒ぎしてしまう。こんかい、事件自体がそれほどちっぽけでもないのですが、こういったすれ違いの積み重ねにどう妥協点を見つけていくか、というところに夫婦や家族のジレンマがあると思います。誰でもおかしそうなミスから始まる関係のこじれがリアルで、ヘタなホラーよりも怖かったです。

「夫婦を超えてゆけ」の意味とは?「逃げ恥」大ブレイクの理由をテーマから考える

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真田丸」と並んで2016年最大のヒットドラマとなった「逃げるは恥だが役に立つ」。ミーハーな僕も話題になり始めた3話あたりから視聴を始めて徐々にハマっていきました。先週最終話を迎えて、すっかり"ロス"状態です。

振り返ってみると大ヒットの要因は様々にあったと思います。流行の発端はやはり「恋ダンス」でしょうか。ガッキーがとても可愛いと話題になり、みんなこぞってYouTubeの公式動画を見ました。ポッキーのCMといい、ガッキーはつくづく踊りに縁のある女優さんです。(むしろ作り手はポッキーのブームを再現しようとしていたのかもしれません)。覚えるにはちょっと難しい振り付けも練習意欲を刺激されます。これまたみんなこぞってYouTubeなどの動画サイトにダンス動画をあげていました。口コミが強くブームをけん引したことはたしかでしょう。

しかしガッキーが可愛いだけではドラマは成り立たないし、ましてこれ程大きなムーブメントを起こすこともありません。視聴率も第1話から一度も息切れをせず、常に右肩上がり、最終話の視聴率は第1話のほぼ倍でした。つまり、「恋ダンス」ブームに乗っかって見始めた視聴率の心を最後まで掴んで離さず、テレビに釘付けにさせた面白さがこのドラマにはあるのです。ではこのドラマはどこが面白く、何が幅広い層を夢中にさせたのか。その原因を考えてみようと思います。

 

平匡さんの初恋、みくりさんとのすれ違い恋愛

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主人公のひとり、津崎平匡は35歳まで恋愛経験ゼロ、童貞を貫き続ける自称"プロの独身"です。彼が家政婦として雇ったもうひとりの主人公、森山みくりはなんとしても仕事を確保したいがために"契約結婚"を提案、二人は仮の"夫婦"生活を始めることになる…というのが主なあらすじ。そして雇用主と家政婦のお金の関係だった二人の距離がじりじりと縮まり、恋をしていく過程がこのドラマの肝です。

星野源演じる平匡さんの不器用だけど可愛さも同居した素朴なキャラクターと、ガッキーのコメディ女優としての才能がたっぷり注ぎ込まれた、一生懸命なのにどこか抜けてるみくりのキャラクター。この二人のケミストリーは抜群でした。二人とも自分のうちにある気持ちに気付き始めているのに、その気持ちが伝えられない、相手の考えていることがよくわからない…だからこそ、ちょっとしたことで飛び上がるほど嬉しくなったり、とてつもなく悲しい気持ちになったり。契約結婚の味付けによって「お互い片思いだと思っていた」というすれ違い恋愛の王道が、緊張感あるラブコメディーに昇華されているのです。

また、見方を変えればこの恋愛は平匡さんの(本格的な)初恋だと言えるのではないでしょうか?彼の過去の恋愛歴はあまり深く語られませんが、ここまで真剣に誰かに好意を抱き、その気持ちに向き合ったのは、おそらく初めてでしょう。そんな初めてだらけで受け身がちの平匡さんと積極的(半ば強引)にアプローチするみくりのすれ違い恋愛を指す「ムズキュン」は言い得て妙でした。平匡さんとみくりさんが二人の間にある障害を一つずつ取り除きながら距離を縮めていく様に視聴者の親心(?)はくすぐられ、思わず応援したくなったはずです。

 

ビター&スイート…風見さんとゆりさんの恋

ここまでのおさらいではハンパなく甘ったるいメロドラマに見える「逃げ恥」。しかし、じつは"スイート"にとどまらない"ビター"要素を練りこむことで上手く偏りを避けています。平匡さん&みくりのペアが"スイート"だとすれば、"ビター"は風見さん&ゆりさんのペアです。

風見さんのゆりさんに対する頑張りはどことなく悲壮感が漂い、切ないです。お互い大人だから相手の気持ちにも気づいているし、無理に関係を深めて傷つけないようにと牽制し合っています。平匡さんとみくりがすれ違いとは理由が違います。彼らのすれ違いは「相手の本心がわからない」からです。なので見ている方もアンジャッシュのコントを見るように「そうじゃないよ!」とツッコミを入れながら楽しめます。一方、風見さんとゆりさんは相手の好意はわかっているし、それを受け止めています。風見さんのアプローチの仕方はそれなりに露骨でしょう。「相手の本心がわからない」から悩むのではなく「相手の本心がわかっている」からこそ悩むのです。風見さんはイケメンであるが故に軽く思われてしまい、なかなか女性と真剣に付き合うことができないことに困り、ゆりさんは自分が風見さんの相手になるにはあまりに年を取り過ぎているとネガティブに考えます。大人だからこそのすれ違い…シュガーレスの恋愛ですね。スイートの裏にビターが伏流しているからこそ、二組のカップルのエピソードは補完的な役割を果たしあい、ドラマ全体の完成度を非常に高いものにしています。

 

それぞれが向き合う呪縛

平匡さん&みくり、風見さん&ゆりさんの両ペアのもどかしい恋の駆け引きから「逃げ恥」の最重要テーマが浮かび上がります。それは自分で自分を罰してしまう呪縛の存在です。この"呪縛"はシリアスの程度に差こそあれ、キャラクター全員に与えられています。

たとえば平匡さんは"プロの独身"を自称。自尊感情の低さをある程度自覚し「こんな自分に好意を抱くわけがない」とみくりさんの好意を最初から受け付けません。これが呪縛です。「童貞」の呪いです(こじらせてるとも言います)。彼は自分で自分の可能性を制限しています。

みくりの場合はどうでしょうか。彼女の呪縛は物語の最後で一気に表面化します。仕事に家事に大忙しで余裕がなくなってしまった彼女は大好きな平匡さんに辛く当たってしまい、自己嫌悪に陥るのです。相手を理屈でやり込め、余裕がなくなれば感情的になってしまう、可愛げのない「小賢しい女」の呪縛は、みくりを徹底的に追い込みます。

先ほど指摘した通り、風見さんは「イケメン」ゆえに損をし、ゆりさんは「高齢」を気にしてこと恋愛に関しては引っ込み思案です。ゆりさんの部下の柚は「帰国子女」であることを言い訳にしたくないがため必要以上に自分を苦しめていました。同じくゆりさんの部下であるナツキはゲイであるために想いを寄せる相手と会うことができません。呪縛というと少々言い過ぎかもしれませんが、沼田さんは上司ゆえに葛藤し(そして彼もまたゲイです)、やっさんはシングルマザーとして仕事に子育てに大奮闘していました。 

それぞれの性格、立場、生き方…異なる背景から生ずる問題が臭くなりすぎない程度にさりげなく、しかし切実に描かれています。各々のエピソードを大きなストーリーの流れに組み込み、単なるモブではなくしっかり人格のある人間として存在感を与えているところにこのドラマの巧みさを感じます。

 

「小賢しいって何ですか?」

「逃げ恥」はすれ違い恋愛のハラハラドキドキを駆動力に物語を進めつつ、一人ひとりの呪縛を少しずつ解いていきます。

まず風見さんとゆりさんから考えてみましょう。二人は関係を深める中、共同作業で呪縛から解放されたように思います。風見さんが「イケメン」なせいで真面目なお付き合いまで発展しないという悩みは、ゆりさんが"甥っ子"なんて冗談めかしつつもしっかり対等に向き合ってくれたことで緩和されていきます。一方のゆりさんもまた「高齢」であるがゆえに風見さんを"甥っ子"とからかい、一定の距離感を保とうともがくわけですが、最終的には沼田さんの後押しもあり、風見さんの熱烈な誘いに根負けします。風見さんとハグをしたそのとき、やっと彼女は「高齢」の呪縛から解放されたのです。

もっと言うと、じつはその前に"ポジティブモンスター"五十嵐と対決?した際の会話で知らず知らずのうちに自らの呪縛を解いています。

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非常に印象的なのでそのまま引用しました。これが呪縛からの解放という「逃げ恥」の最終的なゴールに直接繋がっていることがわかると思います。

このことを踏まえた上で、平匡さんとみくりのケースを考えてみましょう。平匡さんの呪縛を解くのはみくりです。彼女は平匡さんを好きになり、雇用主と労働者の関係に悩みながらも、猛烈にアプローチし続けます。結局、こうしたみくりからのアクションが平匡さんの「童貞」の呪いを解くことになりました。みくりの「好き」の告白でやっと彼は救われるわけです。

みくりが平匡さんに与えた自己肯定感は、最終的に彼女自身を救うことになります。平匡さんの訳のわからない結婚のプロポーズを断り、改めて「共同経営者」として平匡さんとの関係を再出発させたみくりですが、余裕がなくなるにつれ自分の悪いところが見えてきて自己嫌悪に陥ります。これまで表面化していなかったけど、じつはストーリーの深いところでマグマのようにフツフツと煮えたぎっていた「小賢しい」の呪いがここにきて一気に噴出するのです。最終的に全部が嫌になって風呂場に篭ってしまったみくり。そこで平匡さんが救いの言葉を投げかけます。

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この言葉にみくりは助けられ、もう一度頑張ってみようという気持ちになります。平匡さんはいまの幸せがみくりのおかげだと知っているからこそ、こんな優しい言葉をかけられたわけです。情けは人の為ならず、ですね。

しかし「小賢しい」の呪縛の真の解決はこの後の場面です。最終話のラスト、登場キャラクターが全員集合し、みくり企画のお祭りを楽しむ場面。お祭りの盛況っぷりを見てみくりは「小賢しいからこそできる仕事もあるのかもしれません」と言います。

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それに対して平匡さんは「小賢しいって何ですか?」と答えます。

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彼は続けて「言葉の意味はわかります。小賢しいって、相手を下に見て言う言葉でしょ。僕はみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったこと、一度もありません」と言います。

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みくりはこの言葉を聞き、思わず平匡さんに抱きつき「ありがとう…大好き」と呟きます。平匡さんが純粋で素朴だからこそ出た「小賢しいって何ですか?」の言葉。おそらく彼自身は特にみくりを慰めて、という気持ちはなかったでしょう。しかし、みくりはこの何気ない一言で全ての呪縛から解放され、救われたのです。一方、この場面の直前にナツキと沼田さんの恋愛の問題も(彼らにしかわからない形で)解決されます。全てのキャラクターが呪縛から救われたところで「逃げ恥」は幕を閉じます。

 

他人をジャッジしない「逃げ恥」の優しさ

「逃げ恥」を「呪縛からの解放」という目線から読んでみました。しかしこれが一面的でしかないのは重々承知しています。「契約結婚」というワードを通して結婚を相対化、ケア労働の無償提供の矛盾を突く社会派ドラマとしても読めますし、多くの男女を思春期から苦しめるロマンチックラブイデオロギーの硬直を批判する題材にしてもいいでしょう。しかし僕はもう少し「呪縛からの解放」というテーマを深掘りし、「逃げ恥」のより普遍的な価値について考えたいと思います。

そもそも「逃げ恥」がなぜここまでヒットしたのか。それは、とかく性別や立場や年収で分断されてしまう殺伐とした現代社会において、全ての個性を丸ごと包み込んでくれる優しさを終始貫いているからです。みくりも平匡さんも、誰だって自分なりに積んできた人生経験があり、それによって価値観や性格を育み、その積み重ねとして社会的地位を得てきています。すなわち、一人ひとりに大切な人生があり、その全てに意味があるということなのです。「逃げ恥」は誰かの人生を否定したりしません。たとえ奇妙なすれ違いに面白さを見出しても、それは馬鹿にした笑いではありません。どこかポジティブで温かいのです。「あいつはあいつで一生懸命に生きてるんだな」の一言で全てを肯定する前向きさがあります。

たとえば、平匡さんはこれまでずっと独身だったけど、彼なりの道を歩んできました。ゆりさんだって平匡さんと同じように独身を貫いてきたけど、その選択が間違いだったとは思っていないはずです。会社で頑張って働き続け、高い社会的地位も得ました。世の中の女性の励みになりたいと願い、じっさいに多くの同僚や部下たちの憧れの的になっています。今さらになって子供が欲しくなったり、必ずしも後悔がないとは言えなくても、彼女は自分の人生に誇りを抱いています。

それを偉そうに上から目線でジャッジしたりしないのが「逃げ恥」の素晴らしさであり、美しさだと思うのです。「逃げ恥」において、呪縛は自分で自分にかけるものです。他人からの呪縛は、偏見であり、その人のパーソナリティの否定につながってしまいます。登場人物の悩みが自己否定による束縛の結果であることが、この論においては大事になってきます。平匡さんもみくりも風見さんもゆりさんもナツキも柚もやっさんも…みんなが苦しんでいる問題に対して他の登場人物が直接批判の言葉を浴びせたり、好奇の目で見たり、という描写はほとんどありません。唯一の例は五十嵐がゆりさんの年齢を面と向かって悪く言う場面ですが、これはメッセージを伝えるために設置された描写でしょう。そもそも五十嵐の言葉をゆりさん自身が跳ね除けます。これがそのまま自分を呪いから解放する宣言にもなっていることは、先ほども指摘した通りです。

 

「二人を超えてゆけ」の意味

ここまでの論をまとめると、みくりや平匡さんが呪縛から解放される様を通し、一人ひとりのパーソナリティの価値を肯定する作業が「逃げ恥」の肝なのだと言うことができます。"呪縛"は"常識"と読み替えてもいいかもしれません。「みんな違ってみんな良い」のであり、社会のしがらみや"常識"に縛られて必要以上に縛られることはないのだ、という力強いメッセージがこのドラマにはあります。

ここまできってやっと「夫婦を超えてゆけ」の意味がわかるのです。このフレーズ、表面的には「契約結婚」を指していることが明らかですが、この後の「二人を超えてゆけ」「一人を超えてゆけ」まで視界に見れてみれば、自ずと意味が変わってきます。つまり「夫婦を超えてゆけ」「二人を超えてゆけ」の並びは、みくりと平匡さんが"結婚の常識"に挑戦し、やがて本当にかけがえのないパートナーとしてお互いを認め合っていく過程を暗示したものであり、「一人を超えてゆけ」は社会のルールや常識といった呪縛からの解放を表現したものなのです。

 

最終話のラスト、みくりが平匡さんとのさまざまな結婚のスタイルを想像し「きっとどの道も素晴らしいものになる」と締めた後のエンディング曲「恋」はこれまでと全く違った曲に聴こえました。あまりにも気持ちのいい終わり方だったので、続編のことは考えたくありませんが、もしあるならぜひ風見さんとゆりさんで「ムズキュン」したいです(やっぱり終わってほしくない)

 

「朝食、昼食、そして夕食」温かく、どこか寂しげな日常の"食事"を切り取る

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ひさびさにブログを再開しようという気になりました。イブだからといって特に予定も入れていないので何気なく見た映画がとても面白かったのでご紹介。2010年のスペイン映画「朝食、昼食、そして夕食」です。

 

舞台はスペインのサンティアゴ•デ•コンポステーラ。歴史ある街で、エルサレムバチカンと並んでキリスト教三代巡礼地に数えられます。この街では1日に50万食の食事がつくられるそうです。つまり、その分だけ食べる人のドラマがあるのです。本作は何気なくてつい見逃しそうだけど、じつはとても大切な日常のシーンに注目した映画です。

 

原題は「18 COMIDAS」で「18の食事」という意味。夫と息子を送り出すために作る朝ごはん、遠くに住む彼女を迎えるために用意したランチ、意見の合わない父と息子がほっとひと息つける出前の中華、ゲイであることを隠す恋人どうしの楽しげな調理風景…「食」を取り巻く様々な場面は、それぞれの人生の重大なターニングポイントに発展していきます。

 

この作品は基本的に誰かが誰かと食事を共にし、会話をするシーンが肝になってきます。しかも同じ空間にいるのは大抵、母と息子、父と母、姉と妹、いとこ…もしくは恋人どうし、という具合に必ず愛が関わってくるわけです。となると、やはりそこには人間の温かみが染み出してきます。だってそこに愛情があるんだから、冷たかったり、悲しかったり、ということには直接繋がらないはずです。しかし、この映画にはとても強い孤独を感じます。たとえ愛のある食事のシーンだったとしても、切ないのです。もしかしたら、愛があるからこそ、かもしれません。お互い好きあってるのはわかってたのに繋がらなかったとか、待っても待っても恋人が来ないとか…どこかで「触れ合いたいのに触れ合えない」「理解したいのに理解しあえない」という気持ちが見え隠れします。その象徴たるエピソードはゲイのカップルの話でしょう。愛は理屈を超えた概念だからこそ、思い通りに行かず苦しむことになるようです。

 

余談ですが、僕は人が食事しているのを眺めていると時々、切ない気持ちになります。たぶんこの感情は、口をモグモグしている動作が動物のそれとなんら変わらないものであること、食事が生きることと切手も切り離せないものであること、ということに関係してくると思います。まだ自分でも理由がはっきりしてません。僕自身食べることは大好きだし、誰かと一緒に食べるのがごはんを一番おいしくする調味料だと考えてるんですけどね。人が食べてるのを見ると切なくなります。「朝食、昼食、そして夕食」でも全く同じ感情を抱きました。映画を最後まで見ても、やっぱり理由はわかりませんでした。なんだか、そこのモヤモヤばっかりが残る映画でした。ほかに同じこと考えてる人がいたら楽しい(?)のに。