(旧)えいがのはなし

映画に対する感想を自由にまとめたものなのでネタバレを含むレビューがほとんどです。未見の方は注意してください!

Netflix 火花 第2話 / 夢に向かっていく中で

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第2話では、オーディションを受け、テレビ出演のチャンスを掴もうとする徳永が、東京に進出(本当は相方が事件を起こしたせいで大阪を追放されていた)してきた神谷と親睦を深めていく。

徳永は一生懸命努力して、ネタを作り、相方と練習を積んでいるけど、なかなかチャンスが回ってこない。そこで事務所にかけあってオーディション参加の手配をしてもらう。やっとのことでスタート地点にたどり着けたと喜ぶスパークスのふたりだったが、期待は見事に裏切られる。審査員の演出家に相当きつくダメ出しをされてしまうのだ。この場面で彼らのまわりにいるどうみても売れなさそうな芸人たちの姿がなんともシュールで哀しい。笑えるけど、結局のところ、彼らもスパークスと同じく努力を積んでこの結果だと思うと、徳永の未来を暗示しているようで切ない。

「自分のやりたいことと自分に求められていることがかみ合わない」という悩みは誰もが経験したことがあるだろう。徳永はいまその状況にある。自分で面白いと思った笑いが、必ずしも全員にウケるとは限らない。だからブレイクたいと願っても、どこかで妥協や迎合をしないと、いつまで経っても上手くいかない。そういう現実的な問題に対処しなければならないことに気づき、自分の未来はあまり明るくないんじゃないかと落ち込んだりもする。

徳永はオーディション後に後輩芸人に声をかけられ、自分が神谷にやられて嬉しかったことを彼らにもやる(憧れの先輩のカッコよかっところを真似ようとする様はなんとも新しい)。しかし、その後輩芸人たちは神谷の笑いを批判する。結局自分たちのことしか考えていない、自己満足の笑いだと厳しい口調で。その話を聞いている時の徳永の背中には怒りや悲しみ、失望の感情がこもっていた。


徳永が神谷に憧れたのは、彼には他者との認識のギャップに対する悩みがないからだ。自分で面白いと思ったことだけをやる。まわりの反応を見ずに突っ走るから、嫌われることもある。自分の好きなことに集中して世の中に挑む様はなんとも痛快である。みんなができないことを先輩は全力でやっている。徳永は、神谷のその強い意志を、弟子になることで得ようとしているのかもしれない。

徳永はなんだかんだで2回目のオーディションに通る。3/100の倍率である。喜びを爆発させる彼の向かう先は、いつもの井の頭公園で待っていた神谷である。ふたりが目線を合わせたとき、一瞬、時が止まる。これはどういう意味だろう。まだ解釈しきれていない。次の回でより詳しく考えたいと思う。


64-ロクヨン-前編 / 警察という巨大組織に生きる人たち

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横山秀夫原作のサスペンス映画の前編。1週間しか存在しない昭和64年に起きた誘拐事件"ロクヨン"の真相が時効直前になって徐々に明かされていく…主人公は刑事時代にロクヨン事件の捜査をし、いまは広報部長の三上。彼を取り巻くパーソナルな問題も同時進行ながら、重厚な刑事ドラマを描く。非常に完成度の高い作品だった。前後編の切り方も続きがきになり絶妙。映画館を出た時に「これは良い映画を見たぞ!」と思える内容だった。以下詳しく触れていく。

いきなりストーリーの核心に迫ることになるが、主人公三上には多くの解決すべき問題が積み重なっている。長年身を尽くしてきた刑事部から広報部への異動、家出した娘との不仲、未解決の64事件、実名報道をめぐる記者クラブとの対立、キャリア官僚からのプレッシャー…彼の心中を思うと苦しくなる。ほとんど笑顔を見せないし、生きてて辛いだけなんじゃないかと思える。上からも下からも横からも責められ、家庭も常に緊張感が漂っていて心の休まる場がない。自分を守りいってしまうのも理解できる。

本作は前半で64事件の概要とその謎、後半でそれに並行しつつ記者クラブとの対立解消に奔走する三上の姿が描かれる。様々な問題が表出し、追い込まれ、極限状態まで達した時、彼は気づくのである。これまでの苦境は全て自分の態度が招いてきたこと。警察という巨大組織の中で生き抜くため、自分可愛さで守りに入っていた。妻と出会った当初の弱き人を助け正義を貫きたいという情熱はいつの間にか失われてしまっていた。自分を守ることに固執する人間に他人を守る資格なんてない。身を挺してみんなを助けなきゃならない。周りのみんな全員がNOを突きつけ、理解を示さなくても、それが正義だと思うなら絶対に譲らない。三上はこんがらがって抜け出せなくなりかけていた諸問題をそのパッションで強行突破する。最悪になってしまった記者クラブとの関係を、己のクビをかけ、すべてをさらけ出し、素直な気持ちで説得する。弱みも利己的な部分も全部みせて、和解を申し出る。このクライマックスの三上の演説は感動的だった。本当に熱い。これまで溜まっていた鬱憤がすべて弾き飛ばされる痛快さ。三上は自分で自分にかけていた呪縛から解放される。一対一の対話は道を開いた。次なる敵は"警察"という不気味な生き物である。

デッドプール / ヒーロー映画の壁を突き破れ!

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全米公開から4ヶ月。待ちに待ったデッドプールがついに日本上陸。ヒーロー映画としては珍しいR指定にもかかわらず記録的大ヒットを各国で樹立。期待値を上げに上げまくって劇場へ向かったが、とても満足のできる内容だった。

まずいちばんの魅力はデッドプールのキャラクター。早口で下ネタにブラックジョーク、メタ発言を繰り出していく。息つく間もなくどんどんネタを投下するのでまったく飽きない。下ネタは小学生レベルから生々しいものまでしっかり全ジャンル揃えている。人種や障害をネタにした際どいジョークもあるが、デッドプールの特徴とも言えるのはそのメタ発言である。フィクションのキャラクターであることを自覚しているため、X-MENシリーズや演じるライアンレイノルズはもちろん、製作者や予算の低さまでネタにする。そして観客にも結構話しかけてくれる。上手くやらないと寒くなってしまうんだけど、これが絶妙なバランスで保たれているから冷めない。あくまでデッドプールというキャラクターを肉付けする上で必須の要素になっている。

ふざけ尽くしているデッドプールだけど、ストーリーの核は純愛。生涯添い遂げることを誓った愛する女性、ヴァネッサに元の顔で会うため、そしてフランシスに誘拐された後はその命を守るため、彼は全てを捧げる。悪いこともたくさんやってきた彼だけど、"愛する女の前ではヒーローでありたい"という気持ちは不動だ。ヴァネッサのためならなんでも頑張る。悪党の首を斬り飛ばし、脳天を弾丸で撃ち抜くその全てが愛するヴァネッサというのが良い。さいきんのアメコミ映画は"スケールが大きくないと観客を満足させられない"という強迫観念に支配されてインフレ傾向にあるのが現実。いい加減それに疲れる観客も増え始めたこのタイミングで公開されたデッドプール。本作はアメコミ映画界の流行に真っ向から挑む。私欲と非常にパーソナルな理由で戦うコンパクトさが心地よい。

こじんまりとしているのは低予算のためでもある。特にバトルシークエンスの舞台となるのは前半の高速道路、回想シーンの研究所、廃船(アベンジャーズのヘリキャリア?)の3つ。4月公開の「シビルウォー」では前半で既にラゴス、ウィーン、ブカレスト(アパート)、ブカレスト(高速道路)と目まぐるしく場面が移り変わり、各地でバトルが繰り広げられていたことを考えると非常に規模が小さい。しかしデッドプールはその低予算を誤魔化す術を駆使している。例えば前半のバトルはほとんど高速道路上だが、間に何度も回想シーンを挟むことで同じ場面での戦闘に飽きないようにしている。そしてX-MENのメンバーの数など隠しきれないところは容赦なくジョークにする。とても賢い作りだ。

肝心のバトルの中身だけど、これもとてもレベルが高い。空中でクルクル回り、2つの剣を巧みに使いこなして戦う。すごくカッコいい。漫画的な要素を残した華麗な動きの連続。かなり計算され練られたアクションで、技巧的なぎこちなさは感じさせない。あくまでデッドプールのキャラクターにフィットした力の抜けた戦術を表現している。キックアス的なグロテスクさも最高。悪者が容赦なくなぎ倒されていく様は痛快である。

公開初日のためか、観客もこの作品の鑑賞に意欲的な人が多く、細かい小ネタを拾って笑っていた。おかげで場が温まり、素直に作品の世界を受け入れやすい環境を作っていた。まさしく映画館で見るべき作品だと思う。日本でも流行るといいな〜。

Netflix 火花 第1話 / 真夏の出会い

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お笑い芸人の又吉直樹が執筆し、芥川賞を受賞したことで話題になった作品が待望の映像化。期待以上にハイクオリティな出来に驚いた。

売れない芸人徳永が、真夏の花火大会のライブで偶然出会った先輩芸人の神谷に深い感銘を受け、弟子入りを申し出るところから物語は始まる。主人公の徳永はけだるく、少々やる気のなさそうな喋り方をする(林遣都は又吉を意識して演技している?)のだけど、お笑いに対する情熱の名を上げてやろうという向上心は人一倍で、お笑いに全力を注いでいる。しかし一方、うだつの上がらない現状に不満を抱いているし、相方に対しても物足りなさを覚えている。彼の暑さと冷めた感情の入り混じった雰囲気は、8月のジトジトした体力を奪う暑さに重なっていると思う。

対して先輩芸人の神谷。彼は既に完成したお笑い哲学を持っている。徳永はそのぶれない姿勢に惹かれた。この人からは何か学べるし、一緒にいればこのつまらない現状から抜け出せるかもしれない。そういう希望を抱きながらも、どこかで彼の頑固さに気づき、その危うさを予感している。本当にこの人について行って大丈夫なのだろうか?という恐怖に、たくさん新しい刺激を受けて成長したいという好奇心も入り混じり、徳永は複雑な気持ちになっている。だけど、二人のお笑いに対する熱い愛は共鳴し、どうしても引きつけあってしまう。先はわからないけど、とりあえずこの人から学んでみようとなる。この先は、続きを見てみないとわからない。

作品全体に漂うアンニュイな空気も好み。俳優陣も豪華で、安定した面白さを期待できそうだ。2話以降にも期待

ヘイル、シーザー! / 黄金期ハリウッドの舞台裏

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コーエン兄弟最新作。彼らの作品はどれも面白く、レベルが高いのは承知しているけど、個人的に大当たりという作品もないので評価しづらいクリエイターだ。こんかいも残念ながらそのパターンで、楽しみつつもそんなに好きにはなれないという結論に至った。よかった点、悪かった点の両方を以下に書き留めたい。

舞台は50年代の黄金時代のハリウッド。エキセントリックな俳優たちが出入りするスタジオを仕切るのは、なんでも屋のエディ。彼を中心にキャピトルスタジオで起こる様々な騒動を描いたのが本作。特にメインとなるのは超大作「ヘイル、シーザー!」撮影中に拉致された大スターを取り戻す話。てっきりこの事件にスカヨハやジョナヒルが絡んでくるのかと思いきや全くそんなことはなく、彼らはサブエピソードに登場するのみ。エディを接着剤としてスタジオ内のスター事情を描くのがこの作品の主眼なので、ひとつのまとまったサスペンスを期待すると拍子抜けする。見方によってはまとまりを欠いたストーリーと批判されてもおかしくない。楽しい場面、面白い事件はたくさんあるけど、見終わってストーリー全体を振り返ってみると意外と軸がわかりづらくてぶらついてるように見える。コーエン兄弟らしいといえばらしい。

じゃあ実際に軸がないかというとそんなことはない。軸はスタジオをまとめあげるプロフェッショナルのエディだ。彼は裏方に徹し、ワガママで扱いづらいスターたちの問題を一つひとつしらみ潰しに解決していく。上層部の一存で主演に人気があるだけの大根役者を起用したり、清純派イメージとは裏腹に破廉恥な私生活を贈る人気女優を守ったり、とにかくストレスが多いこの仕事を、彼はあまり文句も言わずに真面目にこなし続ける。ここで描かれるハリウッドの闇の部分は非常に皮肉が効いている。コーエン兄弟はここで仕事の不満をぶつけてるんじゃないか?と邪推してしまう。だからちょっとでもハリウッドの裏事情を知っておけば、面白さは倍増だろう。たとえば大スター誘拐事件の黒幕はハリウッドで脚本家として潜んでいた共産主義者たちなのだけど、これはマッカーシズム吹き荒れる戦後のハリウッドで度を越した赤狩りが行われていた歴史と、ハリウッドの脚本家たちが待遇改善を求めて度々ストライキを起こしている事実を基にしていると思われる。

話を元に戻す。本作の魅力はそんな嫌になることだらけのキャピトルスタジオを支える大黒柱、エディのプロ魂だ。彼はロッキード社からポストの打算をされる。ハリウッドの時のように昼夜働きづめなんてこともない、給料もいい。家族のことを考えたら、たしかに転職した方がいいかもしれない。休みの日には息子の野球の試合を見に行ける。だけど、彼はキャピトルスタジオに残る。なぜなら彼はこの仕事に誇りを持っているから。スクリーンには登場しないし、作品づくりに関わるわけでもない。どちらかというと、ずっとその裏で下準備をし続ける役割だ。それでも「みんなに夢と希望を与えている」という自負がある。最後にエディがかます説教は、そんな彼の夢と誇りか詰まっていて感動的だった。

総評。やはり場面ごとのおもしろさはピカイチ(特に訛りが取れない大根役者のくだり)なのだけど、お話全体の統一性が掴みづらく、なによりエディは腰の据わった人間だからあまりヒヤヒヤしない。よく言えば安定感があり、悪く言えば先が気にならない展開になっていた。作品としての面白さはたしかに認めるけど、自分の好みには微妙にかすっていないというのが正直な感想だ。

ヒメアノ〜ル / すぐそばにある狂気

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公開前の試写会段階から評判の良かった「ヒメアノ〜ル」がついに登場。前半はラブコメ、後半はサイコサスペンスという異色の組み合わせながら絶妙なバランスで楽しめるエンタメに仕上げた期待通りの秀作だった。いつも通りネタバレを含むので未見の人は注意してください。

まず前半のコメディパートについて。主人公の名前岡田とその同僚安藤のオフビートな掛け合いが笑いを誘い、かなりテンポも良い。岡田は趣味も将来の夢も特になく、覇気も感じられない"イマドキの若者"的イメージの平凡な人間。彼がなんの取り柄もない一般人であることはこの後のホラー展開で効いてくる。行きつけのカフェの店員に片思いする岡田の同僚、安藤はあまりに一途すぎる余り、そこにストーカー気質を感じなくもない。正直言って気持ち悪い。けど、彼の偏執的な部分は誰でも持ちうるということもまた事実である。似ているようでいて結構対照的な二人はカフェの可愛い店員ユカにアプローチすべく奮闘する。この調子を外したラブコメはかなり面白い。笑えるけど、ちょっと居心地の悪さを覚える悪趣味な感じも最高。特に安藤がユカに降られて部屋にチェーンソーを置くシーンは必ずしもギャグに思えなくて怖い。これは後半の主役森田の狂気を暗示する伏線として素晴らしい。よく考えれば、というかよく考えなくても、安藤と森田のストーカー気質はほとんど一緒である。その違いは他者に対する攻撃性があるか否かしかない。安藤にもし森田のようなトラウマがあったら…どうなっていたかわからないのである。

そして中盤、岡田とユカは初めて共に夜を過ごす。それと時を同じくして、森田は復讐にやってきた高校の同級生とその彼女を殺害し、放火する。セックスの恍惚と惨殺の悲鳴は重なり、ふたつは一体化する。これまた悪趣味な演出だが、ここでラブコメとサイコサスペンスは交差し、狂気の怪物の物語への急転換を遂げる。命を生み出す営みと、命を奪う営み。両極端だが、というか両極端だからこそ、このふたつの営みの距離は近く見えるんじゃないだろうか。そして森田が殺人を犯し、外へ歩き出したタイミングで「ヒメアノ〜ル」のタイトルが映し出され、オープニングクレジットが始まる演出も素晴らしい。鳥肌がたった。ここから本当の物語が始まるのである。

後半は岡田とユカを追いかける森田の狂気を描く。岡田の凡人設定はここで活かされる。観客は彼の目線を通じて物語を味わう。人並みの幸せを感じ、物事が順調に動き始めた矢先の地獄。日常の中に突然割り込んでくる非日常は、見る者の恐怖を煽る。生々しくリアリティある世界で起きる事件だからこそ、観客の身近に感じられてくるのだ。もしかしたらあした自分たちの身にも降りかかってくるかもしれないという気持ち悪さが襲ってくる。前半にもあった居心地の悪さがここで極限に達する。

森田を演じるV6森田(紛らわしい)の演技は素晴らしい。完全に狂気を宿し、まさしく「怪物」なのだけど、どこか悲しげな目をしている。どこにでもいそうなチンピラ感がメチャクチャ怖い。ホントにパチンコ屋の前で朝から並んでそうな雰囲気。自分だってこういう人に関わる機会は少なくなさそうだから、余計に気持ち悪い。彼の狂気の原因も悲しい。事件が終わりを迎えたとき、彼は完全に正気を失ってしまっていう。やっと殺人の連鎖が終わるんだという安心感を覚えると共に、切なさがふつふつと湧いてくる。どうしてここまで誰も止めてくれなかったんだろう?誰かが、どこかで手を差し伸べていたら。彼があそこまで傷ついて気が狂ってしまう前に助けられたら、こうはならなかったかもしれない。いじめっ子は断罪されるべしだけど、それをただ見ていただけの岡田たち="ふつうの人"が森田="ふつうの人"を怪物に変えてしまったのだ。

この物語は「ストーカー」と「イジメ」という日常的に耳にする社会問題をベースにしている。誰だってストーカーの加害者にも被害者にもなるし、イジメの当事者になりえた(もしくは残念ながら"当事者だった"人もいるかもしれない)。だからこの映画は怖い。もっと森田の虐殺シーンがショッキングなものだったら、満点と言えたかもしれない。それぐらい面白い!と思える作品だった。

ストレイト•アウタ•コンプトン/ことばで世界を変える

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 ギャングスタラップの分野を開拓した伝説のヒップホップグループN.W.A.の栄光と挫折を描く伝記映画。N.W.A.という名前にピンとこなくても「アイスキューブが所属していた」といえば映画好きの人はわかる。アイスキューブは現在ハリウッド映画界の中でもヒット作を飛ばし続けるプロデューサーと人気俳優の二つの顔を持ち、豊かな才能を発揮している。本作でもプロデューサーとして製作に関わっているし、彼の息子が父親役として抜群の演技と歌を披露している(ホントにソックリ)。また、このグループの出身者でいちばん成功しているのはドクタードレーだろう。彼は音楽プロデューサーとして2pacエミネムを育成、ハイクオリティのヘッドホンブランドも立ち上げ、国内でも屈指の大金持ちになった。そんな彼らはどこの出身かというと、ロサンゼルスにあるコンプトンというスラム街である。身近に強盗や違法薬物などの犯罪が横行する街で育った。当時のミュージックシーンにおける西海岸のヒップホップは、発祥の地NYを中心とする東海岸に比べ、大幅に遅れをとり「ダサい」イメージが先行していたらしい。そんな時代にN.W.A.のメンバーはコンプトンの現実や世の中への不満を過激なリリックに込めてラップにした。こうしたギャングスタラップはまだ新しく、多くの若者の心を捉え、一躍大人気グループとなったのである。
 
 あれよあれよと言う間にスターダムにのし上がっていく様は爽快だ。コンプトンでくすぶっていた少年たち(特にイージーEは大麻を売りさばく本当のギャングだった!)がお金持ちになって酒池肉林のどんちゃん騒ぎをするのは予想通りすぎて笑ってしまうけど、彼らのエネルギーと輝きには凄いものがある。有名なエピソードとして、ライブ前に警察から圧力をかけられたにもかかわらず、「ファックザポリス」を歌い、メンバーがステージ上で逮捕されてしまうというものがあり、本作でも描かれている。ブラックカルチャーの根底に流れ、N.W.A.もそのテーマとしているものに「反権力」がある。この事件はその理念を端的に表していると思う。

 彼らの活躍と同時期に、ロドニーキング事件(スピード違反の黒人男性を暴行した白人警官が無罪判決を受けた)が発生。あまりに歪な権力構造に対する不満が高まり、ロス暴動にまで発展した。彼らが直接これを煽ったわけではないが、その背景としてN.W.A.の存在があったのは間違いのない事実である。最近でも黒人を射殺して無罪放免になった白人警官が取り上げられ、デモで反対の声が上がるという事件があった。現実はなにも変わっていないようである。この映画がアメリカで大ヒットしたのも、終わりの見えない差別と暴力の歴史に多くの国民が疑問を抱いているからではないだろうか。

 少々話が逸れてしまったので、ふたたびN.W.A.について考える。ここまでの展開を聞くと順風満帆である。しかし、知名度が上がり、活動の幅が大きくなるに従ってメンバー間の争いや対立も増える。映画の中では特にイージーEとその他のメンバーの間の収入格差が原因となってN.W.A.がバラバラになっていく様が描かれている。この映画の肝はここだと思う。N.W.A.解散の一因となった収入格差の問題は、彼らのプロデューサーが中間搾取をしてきたためであったと判明する。これまで反権力をうたってきた彼らは、その権力によって内側から破壊されてしまうのである。なんとも虚しい。全てが終わったあとに過去を振り返ってみると、「あのときは良かった」と思ってしまう。だけど、そんな輝かしい時間は戻ってこない。みんな別々の道を歩み始めてしまった。まさに栄光と挫折の物語だ。「ストレイト•アウタ•コンプトン」が単なる伝記映画にとどまらない魅力を放っているのは、こうした青春映画としての奥深さがあるからである。

 また、異なる進路を選んだメンバーたちだけど、N.W.A.の絆は失われていなかった。お互いが大人になり、許しあえるようになったとき、N.W.A.再結成の話が持ち上がる。また楽しかったあの頃の俺たちに戻ろうじゃないか。そんなとき、不幸にもイージーEが病によりこの世を去る。エイズが原因だった。突然すぎる形で終わってしまったN.W.A.再結成の夢。不謹慎な言い方かもしれないが、イージーEの死によってもう二度とこのグループが帰ってくることはなくなり、N.W.A.はひとつの伝説としての地位を固めたのではないだろうか。自分はヒップホップ素人だけど、この映画からはそういうメッセージを受け取ったと理解している。とにかく圧倒的な熱量をもった傑作青春映画であることは間違いない。