(旧)えいがのはなし

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「シン•ゴジラ」レビュー前編 / 日本の可能性を最後まで諦めない"愛国"映画

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「シン•ゴジラ」のどこから語り始めればいいのか、全く見当もつかない。たくさんの余白を残した、多角的な映画だからである。タイトルに意味深につけられた「シン」も「神」「真」「新」「清」と考えれば考える分だけ漢字が湧いてくる。しかしながら一つだけ言えるのは、現状考えられる中で最も素晴らしい「日本」映画だということだ。語りたいことが山ほどある。したがってまずは前半のあらすじに沿ってその内容を分析したい。後半のあらすじと総括的な解釈の話は、別の記事にまとめようと思う。

 

「シン•ゴジラ」は東京湾沖に漂流する無人トレジャーボートを海上保安庁が発見したところから始まる。船内には「私は好きにした。君たちも好きにしてくれ」という謎のメモ書きが残されている。自殺だろうか?などと思いを巡らせていると突然の大振動。東京湾アクアラインのトンネル付近で局地的地震とも、海底噴火とも取れるような正体不明の事象が発生する。東京湾は直ちに封鎖、政府は緊急対策本部を設置する。いったい何が起こっているんだ、と騒然となる官邸。対応を協議する会議の様子は緊張感にあふれている。かなり早口で何を言っているのかわからない場面もあるけど、とにかく序盤からものすごいエネルギーだ。巨大生物の存在が確認されると、そのスピードは加速する。「予想外」の出来事に右往左往する閣僚や官僚たち。この時点ですでに、なにやら5年前にも同じような光景を見たぞ、という既視感に襲われる。すでにインターネットでは巨大な尻尾が海上に現れる様子をとらえた動画がアップロードされているにもかかわらず、政府はその存在を認めずに「海底での噴火」と発表するし、政府が「巨大生物の上陸はありません」との声明を出ている間に、ゴジラ幼体は大田区方面で上陸を始める。政府があらゆる可能性を想定せず、希望的観測で物事を進めてしまう様に観客は苦笑する。311の原発対応や太平洋戦争の醜態に重ねたカリカチュアといえよう。

 

ゴジラ幼体上陸後、政府は自衛隊の出動を検討し始める。都庁は初めからそれを望んでいたが、なにを決めるにも会議、その会議を開催するための手続き、さらには自衛隊出動の法的根拠。様々な障壁があって事態への対応は思うように進まない。日本というとんでもなくデカい国を動かすためにはなにをするにもルールが必要なのだ。だからかえって緊急事態には対応できない。渋る大河内首相の背中を押してやっと出動した自衛隊。しかしすんでのところで武器使用はされなかった。ゴジラ幼体が海に帰ってしまったからである。

 

本作の主人公は矢口内閣官房副長官と赤坂内閣総理大臣補佐官。矢口は理想に燃えるロマンチストであるのに対し、赤坂は全ての物事をしたたかに進めるリアリストだ。日本を第一に考え、非常に熱意ある政治家であることは両者共通しているものの、そのアプローチは正反対なのである。だからゴジラ幼体への政府対応も矢口は「もっとやれたはずだ」と考えるのに対し、赤坂は「現状ではこれがベスト」と反論する。ふたりの対比は終盤効いてくるので、ここは重要な伏線だ。

 

ゴジラ幼体の失踪により、東京は落ち着きを取り戻す。事後対応に追われる政府のもとに、米国大統領の特使として派遣されてきたのが本作3人目の主人公、カヨコ•アン•パタースンである。演じるのは石原さとみ。正直、予告編で彼女を見たときは「進撃の巨人」の悪夢が一瞬頭をよぎった。樋口真嗣監督のもと、再び集結した「進撃」キャスト陣の中でも、石原さとみのキャラはそのまま「進撃」の雰囲気を残しているように感じられたからだ。そもそも名前がダサいし、ハーフでもない石原さとみが日本人のクォーターを演じ、「ゴッズィーラ」とかいうカタコト英語をドヤ顔で披露しているのを見ていると、せっかくリアルを追求した世界観にひとりだけポツリと漫画的な嘘臭さが浮いてしまうのではないか、と考えてしまった。実際に映画を見てみると、キャラの個性は相当際立っていたので、ある意味ではこの予想も当たっていたのだが、かなりギリギリのバランスで作品内に溶け込んでいたと思う。さすが石原さとみ、かなり難しい役どころのはずなのに、安定しているなあと感心した。

 

だいぶ逸れてしまったので話をもとに戻す。カヨコ派遣の目的、それは身も蓋もない言い方をしてしまえば、ゴジラ対策をアメリカ主導で行うことである。そもそもアメリカはゴジラの存在を把握しており、それを隠匿していた。だから事態を早期に収束させ、非難が自国に及ぶことを避けたかったのである。アメリカから物申されると強く出れない日本の政治家たち。これじゃアメリカの属国だよ…とまたしても現実の日本への不満が呼び起こされる。そんなことは政治家たちも自覚していて、ホントは全部自分たちで処理したいのだけど、なかなかそうもいかなあという歯がゆさ。前半部分はこのようにひたすら日本の負の部分を見せつけられるので、ストレスがたまる。

 

カヨコから手に入れた資料をもとにゴジラ対策を練る特別本部「巨災対」が設置されたが、政界や官界では出世ルートを外れた異端者たちの寄せ集めだ。誰も彼も強烈な個性を持っている。このメンバーたちのキャラ設定は非常にアニメ的である。庵野総監督や樋口監督のテイストが色濃く出ているので、結構好みの割れそうだ。

 

巨災対の調査によって牧教授の存在が浮き彫りになる。どうやら教授はゴジラの存在を事前に予言し、そこに隠されたひとつの真理を発見していたらしい。ちなみにゴジラという呼称は彼の残した資料に記載された民間伝承が基になっている。

 

そして物語は折り返し地点に入る。ゴジラが再び鎌倉に出現したのだ。前回の反省を生かし、素早い対応を見せる首相官邸。東京への侵入を防ぐべく、政府は多摩川を絶対防衛ラインとし、武蔵小杉でゴジラを食い止めるタバ作戦が準備された。首相は渋りながらも自衛隊武力行使を許可。日本の歴史で初めて、本土で軍隊による武器使用が行われた。ここにきて緊張感が高まる。ゴジラ第二形態の上陸のときはまだ身体が小さかったし(予告編を見ていれば)このあとさらに大きなゴジラが登場するのがわかっているので、その驚きにも限界があった。しかし改めて100メートル以上の巨体を動かしながら、黙々と街を破壊するゴジラをみていると、いよいよとんでもないことがこの国に起こってしまったと絶望する。311でいえば、余震の震度6で驚き、本震の震度7とその次の日に水蒸気爆発を起こした原発を見て戦慄するという、二段階の絶望に似ている。ゴジラという荒唐無稽な存在=「虚構」にリアリティを持たせられるのも、「現実」に限りなく近い日本描写を丁寧に積み重ね続けた成果である。「虚構」のゴジラを「現実」に違和感なく根付かせる所業は並大抵のことではない。

 

ここからは畳み掛けるように絶望の展開が準備されている。日本は一度ゴジラに「負ける」のである。まず多摩川を最終防衛ラインとしたタバ作戦はほとんど功を奏すことなく終わる。自衛隊の兵器など、全くの無用の長物であった。そしてゴジラはどんどん東京方面に侵入していく。ルート上には首相官邸もある。米軍はすでにゴジラ攻撃のため、出撃の準備をし、日本政府にプレッシャーをかけてくる。背に腹はかえられぬとの決断から、日本政府はアメリカ政府にゴジラ撃墜の要請をする。かつて国民を焼き殺した米軍の戦闘機に爆弾を落とすことを、こんどは自ら頭を下げて頼み込むのだ。これほど屈辱的で、悔しいことはない。

 

しかしながらそんなことを言ってる余裕もないぐらいに事態は逼迫していた。爆撃が予定されているため、東京都民には避難の命令が出た。首都圏の交通網は大混乱。統率の取れない無政府状態に陥る。ゴジラはひたすら首相官邸のある官庁街まで真っ直ぐ歩いていく。何か目的があるのだろうか?不気味にも全く無言でゴジラは進み続ける。やがて首相官邸が間近に迫った時、大河内首相はやっと官庁街を捨て、立川に政府機能を移転することを決意する。

 

それとほぼ時を同じくして、米軍のゴジラ爆撃が始まった。貫通弾がゴジラの背中を破壊したとき、ゴジラから大量の血が流れ出て、けたたましい咆哮が上がる。確実に日本を破壊しようとしているのに、なぜかものすごく悲痛で、みていて辛い気持ちになった。これまで不幸な目にあってきた人々の無念を一手に引き受けたかのようだ。そしてゴジラは明確に、作中初めてその意思を表す形で、米軍の爆撃機を破壊する。怒りの感情を塞き止めていた堤防が破壊されてしまったかのように、ゴジラは一気に熱戦を放出し、東京を破壊し尽くす。銀座、新橋、霞が関。日本の繁栄を象徴する、先人たちの築いてきたかけがえのない富は一瞬で吹き飛ばされた。そして一面は火の海になる。もう二度と来ないと思っていた東京大空襲の地獄絵図が、いま目の前に広がっている。また、ゴジラの熱戦に巻き込まれる形で、大河内首相以下、閣僚11名は即死する。ここはホントにトラウマになるレベルで絶望的な場面だ。慣れ親しんできた日本は、東京はゴジラによって完膚なきまでに破壊された。しかも、とんでもないことに国のトップも虫けらのように潰された。太平洋戦争で日本がポツダム宣言を受諾しなかった場合に待っていた、「本土決戦」とその帰結としての「一億総玉砕」でしかありえない、絵空だと思っていたことが「現実」に起こった。

 

自分は日本の「負け」を確信した。はじめてゴジラを怖いと感じ、どうしようもないぐらい怯えた。ゴジラは日本人のトラウマを再びここで呼び起こしたのである。第二形態ゴジラの上陸は311を想起させたが、ゴジラは日本人が封印し、常に忘却の彼方へ追いやってきた戦争の記憶を無理やり地中からほりおこす。真っ赤に燃える東京は1945年3月11日そのものだった。

 

1954年公開のゴジラは、ビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸事件をベースに、日本人の戦争の傷をえぐる作品だった。もともと出自が、死者の怨霊、日本人がなかったことにしようとする「戦前」の記憶を蘇らされることを使命に生み出されたモンスターなのだ。それをポスト311の日本社会に当てはめ、現代的な意味で復活させた。いま、ここでしか作れない映画を庵野監督は見事に完成させた。

 

前半で露わになるのは、組織で動き日本人の機動性のなさ、それから無責任、楽観的な将来予想である。政府•軍部の楽観視によって見切り発車された太平洋戦争で酷いしっぺ返しを食らった反省は全く生かされていない。本作でも、アクアライン事故時は巨大生物出現の可能性を早々に切り捨てる政府首脳、官僚の意見に追従するだけの首相、ことあるごとに「これで大丈夫だ」と無根拠にも都合の良い結論を期待する閣僚が描かれている。日本人は「敗戦」の反省ばかりしてきた。あのときミッドウェイで戦艦が引き返してなければ…とか、もっとはやく停戦のステージに進んでれば…とか。挙げ句の果てには「次は勝とう」である。心底呆れる。どうして「あの戦争をしなければ」にならないのか。そもそも戦争を始めてしまったことが、どんな理屈をつけても反論できない、根元の悪なのである。戦後日本は本土空襲、ヒロシマナガサキソ連北方領土占領など「被害者」の記憶によって「侵略」の記憶を塗り固めてきた。自分たちが犯した罪は全部封印してきたのである。歴史の教科書を見ても、日本軍が海外で何をやったかはあまり書かれていない。一方で国土で死んだ人々のことは事細かに記されている。この差は、結局のところ戦争の反省を満足にできていないことの証左である。これ以上ないほど日本の悪い部分が詰まった歴史的事実があるのに、それを教科書として反省できないのはただひたすらもったいない。過去を省みて、その教訓を活かさないから、何度でも同じ失敗を繰り返すのだ。こんなに間抜けなことはない。

 

 

「シン•ゴジラ」はそうした「戦前」と「戦後」の記憶を結びつける役割を果たしており、特に前半、日本政府がゴジラに惨敗する様は、日本人の悪癖が再びこの国に困難をもたらしてしまう皮肉を描いている。一度完全に破壊され、機能停止に陥ってしまった日本がこの後どう動いていくのかは、映画後半で示される。かなり長い文になってしまったので、レビューはここで一旦終わりとし、後日に後半と全体の総括をまとめたレビューを書きたいと思う。