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えいがのはなし

映画に対する感想を自由にまとめたものなのでネタバレを含むレビューがほとんどです。未見の方は注意してください!

黄金のアデーレ 名画の帰還

黄金のアデーレ 名画の帰還 黄金のアデーレ ヘレン•ミレン ライアン•レイノルズ グスタフ•クリムト オーストリア 第二次世界大戦 ナチス 戦争 ヒューマンドラマ 歴史

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グスタフ•クリムトの名画「黄金のアデーレ」をめぐる歴史の悲哀を描いた作品。この絵画のモデルとなった女性を叔母にもち、戦時中にアメリカは亡命したオーストリア人女性が「黄金のアデーレ」はナチスによって略奪されたものであり、本来の所有権は自分にあるとしてオーストリア政府を訴えた事実に基づいている。

 

主演のヘレン•ミレンがさすがの味わい深さである。心のルーツは故郷のオーストリアにありながら、戦時中の悲しい記憶とトラウマのために、戻ることが叶わないアルトマン。長らくアメリカで暮らしていた彼女にとって故郷、そして温かい過去の記憶と繋がれる唯一の手段が「黄金のアデーレ」だったのだ。彼女もまた戦争によって引き裂かれ、不幸になった無数の市民のうちのひとりなのである。

 

ライアン•レイノルズも彼女をサポートする新米弁護士を好演。彼の存在は、過去とどう向き合っていくのか、というテーマに直結していく。先の大戦は70年経った現在においてもなお、被害者と加害者の双方が苦しまなければならないほど凄惨だったのだと改めて認識する。また、徐々にアルトマンと信頼関係を築いていくプロセスも非常に丁寧だった。

 

史実をたどればわかる通り、アルトマンは「黄金のアデーレ」と対面することになるのだが、その演出が白眉である。彼女がこの絵に対しどのような思いを抱いてきたのか、戦争によって何を失い、どう傷ついてきたのか。複雑な感情を目に見える形で美しく表現できるのは映画の特権だと感じる。こじんまりしているが非常に秀逸な作品。オススメだ。

恋人たちの予感

恋愛 恋人たちの予感 ハリー サリー ビリー•クリスタル メグ•ライアン

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こんかいは軽く僕が好きな恋愛映画を紹介しようと思います。恋愛映画とひとくちに言っても様々あると思うのですが「恋人たちの予感」は〈男女の友情は成立するのか?〉という永遠の課題を扱った作品で、個人的にはとても興味深いアプローチです。ハリーは「男と女の関係は、セックスが邪魔をするから、友情には成りえない」と言うのですが、実際のところどうなのでしょうか。友だちと語り合うには最高の材料なんじゃないかと思います。

 

恋人たちの予感」というネーミングセンスにはなんともバブルらしい匂いを感じますね。原題は「When Hary Met Sary…」と韻を踏んでおり、だいたい「ハリーとサリーの場合は…」ぐらいの意味でしょうか?ハリーを演じるのはビリー•クリスタル。飄々としてちょっぴり皮肉っぽい。なに考えてるんだか読めない部分はあるんだけど、笑顔がとても優しいんです。あとかわいい。繰り出す言葉も知的で、一緒にいても飽きないだろうなあと感じます。サリーを演じるのはメグ•ライアン。いま整形?などもあって顔が変わってしまいましたが、当時は絶頂期です。メチャクチャかわいい。キュートで茶目っ気に溢れていて。しっかり者だけど、甘え上手っぽいところがあります。

 

正直、この二人の組み合わせは最初から「お似合いのカップルじゃん!」といった感じなのですが、なかなか恋愛関係には発展しないんですね。そもそも初めて会ったときのハリーに対するサリーの印象は最悪。そのあとの再会も、関係の発展には至らない。しかしサリーが落ち込んでいるとき、三たび現れたハリーが彼女の心を癒します。年を重ねて初めてお互いの相性に気づいたわけです。そこからは「友だち」として関係を築いていくのですが、やっぱりなかなか「恋人」にはなれません。

 

中盤の仲良しエピソードはとても楽しい。レストランで「女性のオーガニズムは演技か否か」というある意味しょーもないテーマで議論を交わすふたりの場面、特にオーガニズムに達する演技をして周りから白い目で見られるサリーなんてかなり有名です。あと電話越しに同じ映画を観たり、年越しパーティーに参加したり。お互い恋愛対象としては見ていなかったのに、共通の感動を重ねるごとに、ふたりはかけがえのない絆と友情を育んでいく。もしかしたら、そこには「恋愛感情」があったのかもしれないけど、そこはある種のタブーになってしまっていた。なんでも話せる間柄なのに、本当に大事なことは話せなかったんですね。なにか感じる部分があっても、無意識に封印してしまっていた。

 

その矛盾は、ふたりが勢いで寝てしまったときに一気に噴出します。サリーはそこでハリーに対する気持ちに気づく。しかしハリーはそれを認めたがらない。結果としてふたりの仲は険悪になり、離れ離れになってしまう。ハリーも「サリーのいない生活」を体感し、初めて彼女の存在の大きさを知ります。

 

そしてクライマックス、ハリーはサリーに会うため、大晦日の年越しパーティーに飛び込み、その想いを伝えます。その言葉がすごく良い。

 

「気温が22度あっても冷たい君が好きだ。サンドイッチの注文に一時間半もかかる君が好きだ。僕を馬鹿にしたように見るその鼻の上の小皺も好きだし、君と会った後僕の服に残った香水の匂いも好きだ。」

 

「一日の最後におしゃべりしたいのは、君なんだ。」

 

これまでクールにかましてたハリーがこれ以上ないぐらい早口に、必死になって愛の告白をしている。その内容もまた、相手を丸ごと受け止めて愛しているという宣言なのです。そして「一日の最後におしゃべりしたいのは、君なんだ。」という有名なセリフ。その日あった感動を分かち合うこともできるし、なによりそばにいることが幸せ。そんな人が一日の最後にいてくれたら最高だという、切実な気持ちが込められており、素晴らしい言葉選びです。ロマンティックコメディの王様、ノーラ•エフロンの脚本が秀逸なのは言わずもがな、心地よく気の抜けたビリー•クリスタルの熱演によって臭みや暑苦しさは抑えられている。絶妙なバランスの上に成り立つ名場面といえるでしょう。

 

本編中に何度も挿入され、最終的にハリー&サリー夫妻と合流する夫婦たちのインタビュー映像は、これからもふたりが円満な関係を続け、幸せに生きていくことを暗示するものとなっており、これまた非常に素敵。多幸感溢れるラストです。

 

語ってたらまた見たくなってきました笑 いまのところ僕の中ではベスト恋愛映画です。つぎはシン•ゴジラのまとめ記事を書こうと思います。

 

「シン•ゴジラ」のイースターエッグについて

東宝 シン•ゴジラ ゴジラ 庵野秀明 樋口真嗣 長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 怪獣

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番外編として「シン•ゴジラ」に登場する小ネタをいくつかご紹介します。当然ながらネタバレを含む内容になるので、ぜひ映画を見てから答え合せとして楽しんでいただきたいと思います。基本的にはツイッター上で指摘されているものをまとめたものです。もし間違いがあれば指摘してくださいね!

※追記しました(8/14)

※追記しました(8/16)

 

まずは初代「ゴジラ」と関連した4つのイースターエッグについて紹介しましょう。

 

①オープニングロゴ

「シン•ゴジラ」のゴツゴツとしたロゴは初代「ゴジラ」のロゴの文体をそのまま流用しています。

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またオープニングのロゴも、ゴジラの足音ともに「東宝」×3 → ゴジラの咆哮後に「シン•ゴジラ」といった形で表示されますね。これは初代を「ゴジラ」のオープニングを意識した演出です。

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複数回表示される「東宝」ロゴも昔のものを使用しており、結構凝った作りになっております。

 

プレジャーボートの名前

ゴジラ出現直前に羽田沖で発見された牧教授のプレジャーボートの名前は「グローリー丸」ですね。なにやら妙なネーミングセンスですが、これは初代「ゴジラ」の冒頭でゴジラに襲撃された漁船「栄光丸」に由来したものです。

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(小さくて読みづらいですが後ろの浮き輪に『栄光丸』とあります)

 

③大戸島

「呉爾羅」という神様の伝説が残る牧教授の故郷、大戸島は、初代「ゴジラ」でゴジラが初めて上陸する場所です。

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④「疎開

国連による核兵器使用の決定で首都圏近郊住民の集団疎開が実施される際、「疎開ってなあに?」というセリフがあります。初代「ゴジラ」でも巨大怪獣出現の報を受けて電車内の男女が「また疎開か」と嘆く場面があり、それを意識したものと思われます。1954年という肌感覚として戦争が生々しかった時代と、長らく戦争とは無関係で平和ボケした21世紀の日本を対比した大変皮肉っぽい演出です。

 

ここからは初代「ゴジラ」とは関係のない、本編中に散りばめられた小ネタを6つ紹介します。

 

⑤牧教授
牧教授として紹介される老人の写真は映画監督、岡本喜八のものです。彼の代表作「日本のいちばん長い日」は「シン•ゴジラ」にも影響を与えており、庵野秀明監督お得意の字幕演出も、元はと言えば岡本喜八監督のシンボルでした。ちなみに「ゴジラ(1984)」には牧吾郎というキャラクターが登場します。もしかしたら意識しているかもしれません。

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⑥手話

大河内総理が巨大不明生物の出現に関する緊急記者会見を開いた際、左のワイプに映る手話のお姉さんが巨大不明生物を「ガオー」で表現しています。たしかに的確な手話は準備されてなさそうですもんね。

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⑦作戦名

タバ作戦は多摩の古い言い方である「タバ」、ヤシオリ作戦はヤマタノオロチの伝説に登場するお酒が由来です。日本神話にはスサノオヤマタノオロチをヤシオリの酒で酔わせ、弱ったところを倒すという伝説があるのです。矢口はよくこんな作戦名をパッと思いつくなと感心してしまいます。

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⑧311との関連

これは未確定情報。なるほどと思ったので載せます。ゴジラ第4形態が多摩川を遡上し、東京に侵入していく場面。上からのアングルでゴジラを映す演出があるのですが、311発生当日にNHKが中継した名取川の氾濫映像を想起させるという指摘がありました。もし本当にそのような意図があったとすれば、ゾッとしますね…。

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(『シン•ゴジラ』の本編画像)

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名取川の氾濫を中継した映像)

 

もうひとつ311をイメージしたんじゃないかと思われる演出があります。それはヤシオリ作戦で血液凝固剤を経口投与するビジュアル。僕にはこれがどうにも福島第一原発でコントロール不能に陥った原子炉を冷却するために放水車を使用した情景と重なって見えました。それは深読みだと言われても反論できませんが…。

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⑨2027年建設予定の超高層ビル

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東京駅の日本橋方面に約390メートルの超高層ビルを建設する計画があります。じつはこのビルがゴジラ上陸時の東京駅前に確認できるのです。というわけで、すくなくとも設定上は2027年以降の東京が舞台ということになります。

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ゴジラの放出する熱戦の向こう側にみえる水色のビルは本来あの場所には建っていません)

 

⑩赤坂5丁目駅

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ゴジラ襲来で首相官邸を捨てたのち、矢口は「赤坂5丁目駅」に避難します。でも赤坂5丁目に地下鉄の駅は存在しない。架空の駅なんですね。地図上の千代田線のルートを見てもらえばわかる通り、赤坂〜乃木坂間はその前後に比べて間隔が空いており、空白地帯になっています。しかし近辺はTBSの移転などもあって街として成長しており、いずれは新駅の開設もあるのではというウワサです。おそらくそうした背景から、2027年以降の東京には千代田線「赤坂5丁目駅」が存在するという想定のもと、映画に登場させた可能性が高いというわけ。

 

2027年以降ということは、日本は既に東京オリンピックを開催した後だということになります。そう考えれば、オリンピックに向けたインフラ整備を口実に地下鉄新駅が開設されたり、東京駅前に日本一の超高層ビルが建設されている可能性も大いにある。非常に面白い作り込みだと思います。

 

以上、10個のイースターエッグを紹介しました!また新しい発見や指摘があれば追記したいと思います。 

 

【追記(8/14)】

ツイッターSNSのアカウント

僕自身は未確認なのですが、映画冒頭で登場するツイッター風のSNSの中にエヴァのキャラクターであるアスカのアイコンが登場するらしいです。来週中に3回目の鑑賞をするので確認してみたいと思います

 

テレビ東京

家電量販店内でたくさん陳列されたテレビ画面にゴジラ襲来に関する政府の記者会見が表示される場面、ひとつだけテレビアニメを放送しているテレビ局があります。緊急時でもなかなか特番を組まないテレビ東京のことでしょうか?ちなみに放送されているアニメは庵野秀明監督の妻、安野モヨコの作品「オチビサン」だそうです。

 

ゴジラの鳴き声

 ゴジラの鳴き声も場面ごとに異なる。

 

第二形態→初代ゴジラ

第三形態→キングコング対ゴジラ以降の通称の鳴き声?

第四形態→84年版ゴジラ

 

ゴジラの足音

ゴジラの足音も過去作品からの流用とのこと。

 

⑤ポンプ車のコードネーム

ヤシオリ作戦に使用されるポンプ車のコードネームは「アメノハバキリ」。これはスサノオヤマタノオロチを倒す際に使用した剣の名前が由来。

 

【追記(8/16)】

①牧教授のプレジャーボート「グローリー丸」の登録番号「MJG15041」は「マイティジャック号全幅150m全高41m」のこと。ちなみに庵野家の猫の名前は庵野マイティジャック。

「シン•ゴジラ」レビュー後編 / 最後まで日本を諦めない"愛国"映画

東宝 シン•ゴジラ ゴジラ 庵野秀明 樋口真嗣 長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 怪獣

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「シン•ゴジラ」レビュー前編(http://starspangledman.hatenablog.com/entry/2016/08/03/091132)では、冒頭からゴジラの上陸、東京襲撃までのあらすじを追いながら、気になったポイントについて感想を書いてきた。レビュー後編では、物語の折り返し地点となる政府機能の立川移転からクライマックスまでの流れを細かく見ていく。長くなりそうだし更新停滞は避けたいので、総括的な話はまた別の記事にする予定。

 

ゴジラの東京襲撃という悪夢のような夜が明け、後半は始まる。ニュース映像によって政府首脳は官邸脱出に失敗しゴジラの熱線で死亡したこと、東京都心はゴジラによる放射能汚染と熱線で起こされた火災によってほぼ壊滅したことが明かされる。政治的空白を避けるため、激しい押し付け合いの中で臨時の総理大臣に選ばれたのは、派閥争いでのし上がってきた族議員。政府機能も立川に移された。そして矢口は巨災対での活躍を評価され、臨時体制の政府においてゴジラ対策に関するほとんど全ての指導権を握ることになる。また、赤坂も臨時の官房長官に任命された。ボロボロになった政府の屋台骨を任されたのは、若きリーダーと、巨災対に所属する官僚機構のはぐれ者たちだ。緊急事態でふだん目立たなかった者たちにスポットライトが当たるこの展開は、とてもオタク心をくすぐるものだろう。ここにきて日の当たるときがやってきたのである。

 

ゴジラは東京駅前で不気味な沈黙を続ける。熱線発射によるエネルギー放出で休止状態に入ったのだ。活動再開した巨災対は矢口プランの実現に向けて全力を尽くす。その中で見えてきたのは、ゴジラが生態系の頂点に立ち、もはや食事すら必要とせず、まわりに空気や水さえあれば生きていける究極の生命体であること、そしていずれは繁殖、飛行して世界中に拡散するおそれがあることをつき止める。その恐ろしさに言葉を失う巨災対のメンバーたち。さらに追い討ちをかけるように、国連核兵器の使用によるゴジラ撃退が提案、可決されたというニュースが飛び込む。里見臨時総理もただそれを受け入れることしかできない。ここで片山臨時外務大臣が怒りと悲しみ、絶望の混じった涙声で怒鳴り、赤坂臨時官房長官が作中最初で最後の狼狽えを見せたのが印象的だった。70年前、多くの国民を殺した核兵器を、まさか首都に落とすなんて。それが国連の名の下にアメリカの主導で行われる。あまりに残酷で、屈辱的だ。しかし、現状においてこれ以上の手段も想定できないのである。"現実的"な判断として核兵器使用以外の選択肢がないのだ。ここで里見のノンビリしたような、頭の鈍そうなリアクションに大いにイラつく(やっぱり年功序列と派閥争いでのし上がってきただけだもんね…と)のだけど、じつは2回目以降の鑑賞では、このおっとりした性格が、国家存亡の危機においてドッシリ肝の座った大物の風格に感じられるのだ。みんなが右も左もわからず混乱する中、彼だけは達観したかのように落ち着いている。非常に頼り甲斐のある人間なのだ。僕がシンゴジラでいちばん好きなキャラは間違いなく里見臨時総理だ。平泉成らしい存在感である。

 

矢口たちも大いにうろたえる。多くの人の指摘通り、安田のリアクションは注目だ。「そりゃ選択肢としてはありだけどさあ…選ぶなよ…」という様々な感情が入り混じった複雑なセリフ。高橋一生の演技が本当にすばらしい。この提案を受け入れたニュースを聞いた日本人はどのような気分になったのだろうか。彼のセリフは観客や作品世界内における世論を代弁している。象徴的な場面である。

 

また、東京への核兵器使用の決定に絶望する気持ちは、日系3世のカヨコもまた同じであった。これまでアメリカ政府のメッセンジャーとして高飛車に振舞ってきた彼女の態度が、ゴジラの東京侵攻、それに続く国連核兵器使用決定を機に明らかに変化していく。70年前のトラウマが東京で再現され、またヒロシマナガサキの悲劇が繰り返されようとしたとき、カヨコの中の日本人の血が蘇るのである。アメリカ社会においてトップエリートの道をひた走ってきた彼女が少なからず持っていたであろう日本人としてのアイデンティティが、ここにきて目覚める。日本を抑圧するアメリカの象徴として描かれてきたカヨコ。しかし彼女は"核兵器"というワードの登場によって180度違った面を見せ、「アメリカ人」であるがゆえに、外部の目線から自らが写し鏡となって、「日本」を浮かび上がらせるのである。ひとりのキャラクターにこれだけの役割を担わせ、ストーリーをすっきりまとめる手腕に感動。そしてそれを見事に演じきった石原さとみも賞賛すべきであろう。

 

前半の記事で少しだけ触れた話、矢口と赤坂のロマンチストvsリアリストの対立はここで光ることになる。両者とも完璧主義者であり、国連の核使用決定に納得がいっていないことに異論はないと思うけど、理想主義者である矢口は、国連の核使用決定に全力で反対し、まだまだやれる道はあるはずだと信じている。矢口プランの完成は絶対だと考えているようだ。政界に身を置く理由を「白黒はっきりしてきて性に合っている」とする彼にとって、赤坂のような折衷案をとることは難しい。ギリギリまでパーフェクトなゴールの実現を目指すのである。対して、赤坂は東京への核兵器投下への深い絶望の気持ちを隠しながら、それでも、ゴジラ戦後の未来を見据え、国際社会の支援を得て復興するためにはこの道しかないと信じている。じっさい、赤坂の考えの方が現実的だし、いまある情報を総合的に勘案すれば、この選択に間違いがあると責めることはできないはずである。おそらく官僚出身である彼らしい考え方かもしれない。どちらも間違いではない。矢口も赤坂も正しい考えを持っている。シビルウォーのスティーブとトニーのようだ。

 

ゴジラの東京都心破壊、そして国連核兵器使用の決定。敗戦のショックすら超えそうな絶望的状況。そんなどうしようもないときでも、生き残った政治家たち、巨災対のメンバーは諦めず最後まで戦おうとする。これまでゴジラにやられっぱなしだった日本が、ついに全精力をつぎ込んで反撃を開始する。本作で最高に燃える場面。例の巨災対のマーチが心地よく耳に響く。

 

牧教授の残したメッセージが解読された。血液凝固剤製造のため、官僚たちが電話越しに頭を下げ、全国を走り回る。莫大な計算量が必要な際は、スーパーコンピューターを所有する世界中の研究施設に要請を出した。核兵器なんて使わせない。俺たちは書類とハンコで戦うんだと言わんばかりに、泥臭く、しかし最も日本人らしいやり方でゴジラ対策に力を尽くす。書類印刷のために大量のコピー機とパソコンが置いてあるのも細かい描写で楽しい部分。映画前半では、あまりに巨大で高度に構築された官僚社会の機動性のなさ、堅苦しさが仇となる部分はあったのだけど、後半部分では組織で動くことの別の面が描かれる。すなわち、チームワークの強みである。巨災対一人ひとりの力は微々たるものだ。しかしながら、みんながその知識と才能を持ち寄り、組み合わせることで、ひとつの大きな成果を生む。ムラ社会から抜け出せないとか、いつまでたっても自立できないと批判されがちな日本人。それたしかに事実だけど、目線を変えればそれは大きな強みなのである。この発想の転換が気持ちいい。優秀な人材はたくさんいる。それを動かし、活用するのが極端に下手なのだ。希望を完全に捨てる必要はなくて、出世とかメンツとかくだらないこだわりを捨て、バランスのとれたリーダーシップのもと組織で動けば、日本人もまだやれるのだ。そう、「日本人はまだやれる」が最後に明かされる本作のテーマである。裏を返せば、いまの日本はその真価を発揮できていない。でも、だからといって諦めはいけない。やれることを探して頑張らなきゃ。そこから全てを始める必要があるのだ。

 

ラストに言及する前にほとんどまとめになってしまった。話を戻してヤシオリ作戦の流れを追ってみよう。チームワークの輝きはまだ続く。血液凝固剤の完成が、国連の設定したタイムリミットまでどうしても間に合わない。そこで泉の力を借りて、日本は核兵器使用の延期工作を試みる。

 

登場以来、ラーメンの伸び具合を気にしたり、とにかく呑気なジジイにしかみえなかった里見臨時総理がカッコよく見えるシーンがやってきた。赤坂に「そろそろお好きなようにされたらどうですか」と促された総理は、ただ一言「で、どの書類に判子を押せばいいの」と返す。もちろん、彼なりにいろいろ思うところはある中、クヨクヨ悩んだりせず、一国のリーダーとして覚悟を決めたように一言つぶやくのである。そこには優秀な部下たちへの圧倒的な信頼がある。一見流されているだけのように見えて、じつは理想的な上司なのだ。そして、影ではフランス大使に頭を下げていた。派閥争いでのし上がった井の中の蛙なんかではない。やはり長い人生経験で培った、肝の座った落ち着きと責任感は、並大抵の人間ではかなわないものだった。

 

もうひとり、決断をする人間がいる。カヨコ特使だ。彼女はパタースン家の跡継ぎとして、40代で大統領も夢ではない完璧な経歴を歩んでいた。しかし、日本の未来を救うため、3度目も核兵器をこの国に落とすことなんてできないと、自分の夢を代償にしてホワイトハウスに働きかけるのである。おそらく飛行機で話している相手は父親であろう。一瞬、瞳の中に涙を浮かべ、意を決したように立ち上がる彼女の姿に感動した。矢口たちの情熱は、遠い海の向こうで育った女性の心を動かし、また、その中に眠っていた故郷の魂を呼び覚ましたのだ。最終的に、矢口プランは米軍の協力を取り付けることにも成功する。

 

矢口プランはヤシオリ作戦と名付けられた。唐突すぎて何のことやらわからなかったのだが、八岐大蛇を退治したヤマトタケルの伝説に由来したネーミングである。ここから先の展開はギャグすれすれだし、宇宙大戦争マーチなど場面的に若干ミスマッチだと感じているので、個人的には違和感も否定できないのだけど、非常に大事な場面である。

 

ゴジラの動きを鈍らせるため、無人爆撃機によって挑発し、体力を消耗させる。合理的でよく練られている。そして周囲のビルを爆破し、上からゴジラに叩きつけることで動きを封じる。あまりに豪快で言葉を失ってしまったが、観客の破壊欲を刺激する、迫力あふれる映像だ。三菱地所の経営が心配になる。じっさいにその損害を計算したネットの記事によると、これでもつぶれることはないようである。正直、ゴジラより倒すのが難しそうだ。また、無人在来線爆弾の響きにウットリした人は多い。京急の仇を取るJRに注目である。最後は経口投与による血液凝固剤の注入。あのビジュアルはおそらく福島第一原発事故の放水車による原子炉冷却をモチーフにしているのであろう。露骨にあの記憶を想起せざるをえなかった。矢口自体、事故当時に前線で身を挺して被害を最小限に抑えた吉田所長をモデルにしているのは明らかだから、当然と言えば当然だ。吉田所長があそこで現場を放り出していたら、東京も人が住めない土地になっていたかもしれない。そんな過去を思い出させる作戦内容だった。

 

ゴジラを倒すのではなく、動きを止めるというのも、非常に「らしい」オチのつけ方だ。ゴジラは大災害のモニュメントとして東京のど真ん中に居座り続けることになる。これからの世界はゴジラと共存していかなければならない。福島第一原発の自体が収まっても、廃炉自体にはあと何十年もかかる事実と重なる。我々は機能不全に陥った原発とこれからも共に生き続ける。目の前に見える形でそれは保存され、逃げ出すことはできない。最後まで「シン•ゴジラ」は311をトレースした形になっている。そして意味深なラストカット。これは大いに解釈の分かれる部分である。自分の考えた意味については、まとめ記事に書くつもりだ。

 

とりあえずあらすじはひと通り振り返り終えた。そろそろ5000字を越えようというボリューム担ってきたので、一旦ここで話を終えたいと思う。この映画が公開された価値、総括的な感想については、また今度べつの記事に書くつとりだ。

「シン•ゴジラ」レビュー前編 / 日本の可能性を最後まで諦めない"愛国"映画

シン•ゴジラ ゴジラ 庵野秀明 樋口真嗣 長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 東宝 SF 怪獣

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「シン•ゴジラ」のどこから語り始めればいいのか、全く見当もつかない。たくさんの余白を残した、多角的な映画だからである。タイトルに意味深につけられた「シン」も「神」「真」「新」「清」と考えれば考える分だけ漢字が湧いてくる。しかしながら一つだけ言えるのは、現状考えられる中で最も素晴らしい「日本」映画だということだ。語りたいことが山ほどある。したがってまずは前半のあらすじに沿ってその内容を分析したい。後半のあらすじと総括的な解釈の話は、別の記事にまとめようと思う。

 

「シン•ゴジラ」は東京湾沖に漂流する無人トレジャーボートを海上保安庁が発見したところから始まる。船内には「私は好きにした。君たちも好きにしてくれ」という謎のメモ書きが残されている。自殺だろうか?などと思いを巡らせていると突然の大振動。東京湾アクアラインのトンネル付近で局地的地震とも、海底噴火とも取れるような正体不明の事象が発生する。東京湾は直ちに封鎖、政府は緊急対策本部を設置する。いったい何が起こっているんだ、と騒然となる官邸。対応を協議する会議の様子は緊張感にあふれている。かなり早口で何を言っているのかわからない場面もあるけど、とにかく序盤からものすごいエネルギーだ。巨大生物の存在が確認されると、そのスピードは加速する。「予想外」の出来事に右往左往する閣僚や官僚たち。この時点ですでに、なにやら5年前にも同じような光景を見たぞ、という既視感に襲われる。すでにインターネットでは巨大な尻尾が海上に現れる様子をとらえた動画がアップロードされているにもかかわらず、政府はその存在を認めずに「海底での噴火」と発表するし、政府が「巨大生物の上陸はありません」との声明を出ている間に、ゴジラ幼体は大田区方面で上陸を始める。政府があらゆる可能性を想定せず、希望的観測で物事を進めてしまう様に観客は苦笑する。311の原発対応や太平洋戦争の醜態に重ねたカリカチュアといえよう。

 

ゴジラ幼体上陸後、政府は自衛隊の出動を検討し始める。都庁は初めからそれを望んでいたが、なにを決めるにも会議、その会議を開催するための手続き、さらには自衛隊出動の法的根拠。様々な障壁があって事態への対応は思うように進まない。日本というとんでもなくデカい国を動かすためにはなにをするにもルールが必要なのだ。だからかえって緊急事態には対応できない。渋る大河内首相の背中を押してやっと出動した自衛隊。しかしすんでのところで武器使用はされなかった。ゴジラ幼体が海に帰ってしまったからである。

 

本作の主人公は矢口内閣官房副長官と赤坂内閣総理大臣補佐官。矢口は理想に燃えるロマンチストであるのに対し、赤坂は全ての物事をしたたかに進めるリアリストだ。日本を第一に考え、非常に熱意ある政治家であることは両者共通しているものの、そのアプローチは正反対なのである。だからゴジラ幼体への政府対応も矢口は「もっとやれたはずだ」と考えるのに対し、赤坂は「現状ではこれがベスト」と反論する。ふたりの対比は終盤効いてくるので、ここは重要な伏線だ。

 

ゴジラ幼体の失踪により、東京は落ち着きを取り戻す。事後対応に追われる政府のもとに、米国大統領の特使として派遣されてきたのが本作3人目の主人公、カヨコ•アン•パタースンである。演じるのは石原さとみ。正直、予告編で彼女を見たときは「進撃の巨人」の悪夢が一瞬頭をよぎった。樋口真嗣監督のもと、再び集結した「進撃」キャスト陣の中でも、石原さとみのキャラはそのまま「進撃」の雰囲気を残しているように感じられたからだ。そもそも名前がダサいし、ハーフでもない石原さとみが日本人のクォーターを演じ、「ゴッズィーラ」とかいうカタコト英語をドヤ顔で披露しているのを見ていると、せっかくリアルを追求した世界観にひとりだけポツリと漫画的な嘘臭さが浮いてしまうのではないか、と考えてしまった。実際に映画を見てみると、キャラの個性は相当際立っていたので、ある意味ではこの予想も当たっていたのだが、かなりギリギリのバランスで作品内に溶け込んでいたと思う。さすが石原さとみ、かなり難しい役どころのはずなのに、安定しているなあと感心した。

 

だいぶ逸れてしまったので話をもとに戻す。カヨコ派遣の目的、それは身も蓋もない言い方をしてしまえば、ゴジラ対策をアメリカ主導で行うことである。そもそもアメリカはゴジラの存在を把握しており、それを隠匿していた。だから事態を早期に収束させ、非難が自国に及ぶことを避けたかったのである。アメリカから物申されると強く出れない日本の政治家たち。これじゃアメリカの属国だよ…とまたしても現実の日本への不満が呼び起こされる。そんなことは政治家たちも自覚していて、ホントは全部自分たちで処理したいのだけど、なかなかそうもいかなあという歯がゆさ。前半部分はこのようにひたすら日本の負の部分を見せつけられるので、ストレスがたまる。

 

カヨコから手に入れた資料をもとにゴジラ対策を練る特別本部「巨災対」が設置されたが、政界や官界では出世ルートを外れた異端者たちの寄せ集めだ。誰も彼も強烈な個性を持っている。このメンバーたちのキャラ設定は非常にアニメ的である。庵野総監督や樋口監督のテイストが色濃く出ているので、結構好みの割れそうだ。

 

巨災対の調査によって牧教授の存在が浮き彫りになる。どうやら教授はゴジラの存在を事前に予言し、そこに隠されたひとつの真理を発見していたらしい。ちなみにゴジラという呼称は彼の残した資料に記載された民間伝承が基になっている。

 

そして物語は折り返し地点に入る。ゴジラが再び鎌倉に出現したのだ。前回の反省を生かし、素早い対応を見せる首相官邸。東京への侵入を防ぐべく、政府は多摩川を絶対防衛ラインとし、武蔵小杉でゴジラを食い止めるタバ作戦が準備された。首相は渋りながらも自衛隊武力行使を許可。日本の歴史で初めて、本土で軍隊による武器使用が行われた。ここにきて緊張感が高まる。ゴジラ第二形態の上陸のときはまだ身体が小さかったし(予告編を見ていれば)このあとさらに大きなゴジラが登場するのがわかっているので、その驚きにも限界があった。しかし改めて100メートル以上の巨体を動かしながら、黙々と街を破壊するゴジラをみていると、いよいよとんでもないことがこの国に起こってしまったと絶望する。311でいえば、余震の震度6で驚き、本震の震度7とその次の日に水蒸気爆発を起こした原発を見て戦慄するという、二段階の絶望に似ている。ゴジラという荒唐無稽な存在=「虚構」にリアリティを持たせられるのも、「現実」に限りなく近い日本描写を丁寧に積み重ね続けた成果である。「虚構」のゴジラを「現実」に違和感なく根付かせる所業は並大抵のことではない。

 

ここからは畳み掛けるように絶望の展開が準備されている。日本は一度ゴジラに「負ける」のである。まず多摩川を最終防衛ラインとしたタバ作戦はほとんど功を奏すことなく終わる。自衛隊の兵器など、全くの無用の長物であった。そしてゴジラはどんどん東京方面に侵入していく。ルート上には首相官邸もある。米軍はすでにゴジラ攻撃のため、出撃の準備をし、日本政府にプレッシャーをかけてくる。背に腹はかえられぬとの決断から、日本政府はアメリカ政府にゴジラ撃墜の要請をする。かつて国民を焼き殺した米軍の戦闘機に爆弾を落とすことを、こんどは自ら頭を下げて頼み込むのだ。これほど屈辱的で、悔しいことはない。

 

しかしながらそんなことを言ってる余裕もないぐらいに事態は逼迫していた。爆撃が予定されているため、東京都民には避難の命令が出た。首都圏の交通網は大混乱。統率の取れない無政府状態に陥る。ゴジラはひたすら首相官邸のある官庁街まで真っ直ぐ歩いていく。何か目的があるのだろうか?不気味にも全く無言でゴジラは進み続ける。やがて首相官邸が間近に迫った時、大河内首相はやっと官庁街を捨て、立川に政府機能を移転することを決意する。

 

それとほぼ時を同じくして、米軍のゴジラ爆撃が始まった。貫通弾がゴジラの背中を破壊したとき、ゴジラから大量の血が流れ出て、けたたましい咆哮が上がる。確実に日本を破壊しようとしているのに、なぜかものすごく悲痛で、みていて辛い気持ちになった。これまで不幸な目にあってきた人々の無念を一手に引き受けたかのようだ。そしてゴジラは明確に、作中初めてその意思を表す形で、米軍の爆撃機を破壊する。怒りの感情を塞き止めていた堤防が破壊されてしまったかのように、ゴジラは一気に熱戦を放出し、東京を破壊し尽くす。銀座、新橋、霞が関。日本の繁栄を象徴する、先人たちの築いてきたかけがえのない富は一瞬で吹き飛ばされた。そして一面は火の海になる。もう二度と来ないと思っていた東京大空襲の地獄絵図が、いま目の前に広がっている。また、ゴジラの熱戦に巻き込まれる形で、大河内首相以下、閣僚11名は即死する。ここはホントにトラウマになるレベルで絶望的な場面だ。慣れ親しんできた日本は、東京はゴジラによって完膚なきまでに破壊された。しかも、とんでもないことに国のトップも虫けらのように潰された。太平洋戦争で日本がポツダム宣言を受諾しなかった場合に待っていた、「本土決戦」とその帰結としての「一億総玉砕」でしかありえない、絵空だと思っていたことが「現実」に起こった。

 

自分は日本の「負け」を確信した。はじめてゴジラを怖いと感じ、どうしようもないぐらい怯えた。ゴジラは日本人のトラウマを再びここで呼び起こしたのである。第二形態ゴジラの上陸は311を想起させたが、ゴジラは日本人が封印し、常に忘却の彼方へ追いやってきた戦争の記憶を無理やり地中からほりおこす。真っ赤に燃える東京は1945年3月11日そのものだった。

 

1954年公開のゴジラは、ビキニ環礁での水爆実験による第五福竜丸事件をベースに、日本人の戦争の傷をえぐる作品だった。もともと出自が、死者の怨霊、日本人がなかったことにしようとする「戦前」の記憶を蘇らされることを使命に生み出されたモンスターなのだ。それをポスト311の日本社会に当てはめ、現代的な意味で復活させた。いま、ここでしか作れない映画を庵野監督は見事に完成させた。

 

前半で露わになるのは、組織で動き日本人の機動性のなさ、それから無責任、楽観的な将来予想である。政府•軍部の楽観視によって見切り発車された太平洋戦争で酷いしっぺ返しを食らった反省は全く生かされていない。本作でも、アクアライン事故時は巨大生物出現の可能性を早々に切り捨てる政府首脳、官僚の意見に追従するだけの首相、ことあるごとに「これで大丈夫だ」と無根拠にも都合の良い結論を期待する閣僚が描かれている。日本人は「敗戦」の反省ばかりしてきた。あのときミッドウェイで戦艦が引き返してなければ…とか、もっとはやく停戦のステージに進んでれば…とか。挙げ句の果てには「次は勝とう」である。心底呆れる。どうして「あの戦争をしなければ」にならないのか。そもそも戦争を始めてしまったことが、どんな理屈をつけても反論できない、根元の悪なのである。戦後日本は本土空襲、ヒロシマナガサキソ連北方領土占領など「被害者」の記憶によって「侵略」の記憶を塗り固めてきた。自分たちが犯した罪は全部封印してきたのである。歴史の教科書を見ても、日本軍が海外で何をやったかはあまり書かれていない。一方で国土で死んだ人々のことは事細かに記されている。この差は、結局のところ戦争の反省を満足にできていないことの証左である。これ以上ないほど日本の悪い部分が詰まった歴史的事実があるのに、それを教科書として反省できないのはただひたすらもったいない。過去を省みて、その教訓を活かさないから、何度でも同じ失敗を繰り返すのだ。こんなに間抜けなことはない。

 

 

「シン•ゴジラ」はそうした「戦前」と「戦後」の記憶を結びつける役割を果たしており、特に前半、日本政府がゴジラに惨敗する様は、日本人の悪癖が再びこの国に困難をもたらしてしまう皮肉を描いている。一度完全に破壊され、機能停止に陥ってしまった日本がこの後どう動いていくのかは、映画後半で示される。かなり長い文になってしまったので、レビューはここで一旦終わりとし、後日に後半と全体の総括をまとめたレビューを書きたいと思う。

火花 / 全10話を振り返って

Netflix 火花 又吉直樹 ピース 吉本興業 お笑い

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Netflix配信の連続ドラマ「火花」を全話鑑賞した。初めは各話ごとに感想をまとめていたけど、最近になって停滞していた分を一気見したので、まとめて10話分の感想を書くことにする。

 

上に載せたポスターにも書いてある通り、「火花」に登場する徳永と神谷はあまりに純粋すぎた。純粋すぎて世の中ではうまくやっていけない。それこそ、他人に迎合するなんてできなくて、自分のフィルターを通して見た世界を正確に表現してのみ満足できるという、アーティスト気質の芸人たちである。そんな彼らの青臭い挑戦の日々を綴ったのが、まさしくこの「火花」であった。

 

熱海で神谷のライブを見て雷に打たれたような衝撃を受けた徳永は、ほとんど盲目と言っていいぐらい無心で神谷の背中を追いかけることになる。長年付き添ってきた相方ですらわかってくれない自分のこだわりとかお笑いに対する熱い想いを、神谷はすんなりと汲み取り、理解した。そして二人は根本の部分で共鳴している。口下手で人付き合いの苦手な徳永にとって、自分を素直にさらけ出せる場はおそらくお笑いのステージと、神谷と二人きり(ときどきマキも隣にいたけど)の時だけである。たぶん徳永にとって神谷は唯一無二の完全な自分の理解者であり、心安らぐ人であった。

 

しかしながら、徳永もどこかでその危なっかしいイノセンスにギャップも感じていた。全く妥協を許さない純潔さは身を滅ぼす危険も秘めていた。しかもそれは現実になってしまう。神谷は自分の好きなお笑いばっかりやって、他人に好かれようとする気が一切なかったために、借金まみれになってしまう。ある意味彼は子どもみたいに無責任だった。

 

一方の徳永は徐々に売れ始め、キャリアが軌道にのる中で、妥協を覚える。というかそうせざるを得なくなる。相方の目もある。好きなことばかりやっても食べていけない。だから段々とマス受けを狙ったネタにシフトチェンジしていく。ここは徳永の成長でもあり、同時にアイデンティティの喪失でもあった。自分をそのまま出せるからお笑いが好き、という面もあったはずだ。売れてるのに、なんとなく不満が残っていた。だから徳永は、神谷に自分が間違っていないこと、まだ芯の部分は変わってないことを確認したかった。けど、神谷の方から距離を取られてそれは叶わなかった。

 

さらに徳永を幻滅させることを神谷はしてしまう。「模倣はしない」と言っていたのに、髪型から服装まで徳永を丸パクリしてしまうのである。自分の好きなお笑いをやっているのに、自分を信じてきたのに、どんどん凋落してしまう厳しい現実の中で、神谷は自分を見失ってしまった。憧れの先輩の醜態をみて、徳永は怒り、悲しむ。

 

順調にキャリアを積み上げていたかのように見えたスパークスだったが、後ろ盾に見切りをつけられるとアッサリ転落。相方の結婚もあって、コンビは解散となる。純粋に笑いを求め、努力してきた日々は突然終わりを迎えた。ラストライブは涙なしには見られない。ふたりのお笑いへの熱すぎる愛が凝縮されていた。そして解散で夢を諦めた徳永の前に再び神谷が現れる。豊胸手術をした姿で。自分がわからなくなって、最後はやっめいいこととやっちゃいけないことの区別もつかなくなった。純粋を通り越してただのアホである。どうしてこんなことしちゃったんだと泣き叫ぶ神谷はまるで幼稚園児だった。しかし徳永が憧れ、追い続けた神谷の魅力は結局のところここにある。誰にもできないことをやってしまう。吹っ切れた純粋なアホであること。そんなの普通の人間にはできない。だから爽快で、勇気をもらえるのだ。自分の可能性を、彼に見るのである。

 

本作の最後は、徳永が再びお笑いへの熱意を回復ところで終わる。屈託のない笑顔を取り戻し、自分が楽しいと思うことを追求する神谷をみて、憧れの先輩が戻ってきたことを確信したのだ。誰になんと言われようとも好きなことを追求する、そんな希望に満ち溢れたラストだった。

 

結局のところ「火花」とはなんだったのだろう。もちろんコンビ名の「スパークス」は「火花」の英語である。ふたりの危険すぎる純粋さのことだろうか。それとも、バチバチと音を立て燃えがり、一瞬で消えてしまう彼らの青臭い青春時代のことであろうか。いろんな解釈の余地がある。

 

とにかく、簡単にまとめてしまえば徳永と神谷のアホさ、引くぐらいの真面目さ、子どもっぽさがとてつもなく愛おしく、同時に憎たらしい物語であった。観客の自分も彼らのようなピュアさをまだ心の中に秘めていると信じたいけど、本当はそんなものとっくの昔に失っていて、社会に順化することを覚えてしまっているのかもしれない。そうなると彼らが大好きだし、一方で大嫌いだと思えた。そういうアンビバレントな感情を引き起こす、複雑で重層的は作品であった。傑作だと思う。

ザ•ウォーク / "ふたり"の主人公

ザ•ウォーク ロバート•ゼメキス ジョセフ•ゴードン•レビット

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WTCを命綱なしで渡ったフランス人大道芸人フィリップの歩みを映像化した作品。多くの映画賞で無冠に終わってしまったのが残念なぐらい見ごたえがある。

 

タイトルにもある通り、この映画には"ふたり"の主人公がいる。ひとりはもちろんフィリップ。そしてもうひとりはWTCである。観た人にはわかるだろう。かつてNYの中心にそびえ立っていたビルは紛れもなく立派な人格を有していた。人格を持っているということは、つまり、このビルは生きていた。WTCと聞いて真っ先に思い浮かべるのはアメリカ同時多発テロだ。理不尽なテロによって多くの人の命が奪われ、WTCも砂埃の中に無残にも崩れ落ちた。ここから連想されるのは"死"である。罪なき一般市民、そしてNYを見守り続けてきたシンボル、それから世界の核として栄華を誇ってきたアメリカ、その中心として存在感を放つ"古き良き"NY。みんな死んだ。WTCは跡形もなく消え、911を境に世界は変わってしまった。

 

もうひとつ"死"を連想させるのは、無謀とも言えるフィリップの綱渡りである。命綱なしで、何百メートルも上空の強風吹き荒れる中をたった一人で渡りきる。本当に死と隣り合わせの営みだ。常人の理解を超えた行為なので、無益で有害だとの批判も避けられないだろう。

 

そんなふたつの"死"が印象的な本作が描くのは、正反対にまっすぐ"生"である。案外、ふだんの生活で自分は生きているんだと自覚することは少ない。死という極端な概念に直面したときに初めて生を実感することもある。フィリップの綱渡りパフォーマンスは死と隣り合わせであると同時に、というよりも、だからこそ、生が強く前面に出てくる営みだ。そしてパフォーマンスの成功に向けて全精力を注ぐ彼の姿はとても生き生きとして輝いている。いつだってポジティブに考え、自分の挑戦がうまくいくことを信じて疑わない。死を強く匂わせながら、かなり前向きな映画なのだ。

 

フィリップは自分が単なる大道芸人ではなく、アーティストなのだと主張する。大道芸人が提供するのはレジャーだが、アーティストが生み出す芸術はそれ以上の価値があり、人生を豊かにし、生きる意味を与えてくれる。芸術という営みは、高度に頭脳を発達させた人間に特有なものの一つだ(厳密に言えば違うかもしれないけど)。理性的な人間は本能に従うだけの生き方をしない。自分がこの世界に存在する理由を探し求める。芸術を楽しむには、本能的な生活を満足に過ごせるだけの余裕が必要だ。だからアートなんてものは人生の暇つぶしだという人もいる。その考えも間違いではないかもしれない。

 

しかし、フィリップの挑戦を見ればその考えも変わるはずだ。WTCの頂上で達成された偉大な記録。彼の挑戦は単なるビルに命を吹き込み、NY繁栄のシンボルとして、ひとつの人格を与えた。そして911テロは図らずもフィリップの偉業を未来永劫破られることのない永遠のものとした。なんとも皮肉な帰結だが、永遠に形を残し人々の間に受け継がれるということこそ、いずれ死を迎える人間が生を豊かにする上で芸術を重視する本質なのではないか。そう考えれば、芸術に全てを捧ぐことは決して無意味ではない。この世で何かを成し遂げ、自分が生きた爪痕を後世に残したいという切なる願い。フィリップの心のどこかにもあったんじゃないだろうか。

 

フィリップが仲間を集め、WTCでのパフォーマンスをゲリラ的に実現するべく綿密に計画を練る様はさながらクライムサスペンスで、本作を大いに魅力的な作品へ押し上げていた。計画直前に死の恐怖に怯えるフィリップも人間臭くて好きだ。

 

そしてパフォーマンス実行のその瞬間、フィリップが足裏でロープの感触を楽しむようにゆっくりと足を踏み出し、やがて軽快なステップで心配する周囲を挑発する様はスリリングだ。綱渡りという地味な動きをこれだけのエンターテイメントに仕上げる手腕に感心。山場だけあって、まるで自分も綱渡りをしているかのような緊張感とリアリティを得られた。手に汗握る、ホントに手がびちゃびちゃになってしまうほどの没入感。これは映画館じゃないと、という映像体験だった。

 

「生きる」と「死ぬ」、その間にある「芸術」。3つを軸に展開する本作はなんでも前向きに進む元気を与えてくれる爽やかで、ほろ苦い青春映画であった。そして、悲惨なテロによって命を落とした被害者と、いつまでもNY市民の心に残り続けるWTCへの鎮魂歌でもあった。