ザ•ウォーク / "ふたり"の主人公
WTCを命綱なしで渡ったフランス人大道芸人フィリップの歩みを映像化した作品。多くの映画賞で無冠に終わってしまったのが残念なぐらい見ごたえがある。
タイトルにもある通り、この映画には"ふたり"の主人公がいる。ひとりはもちろんフィリップ。そしてもうひとりはWTCである。観た人にはわかるだろう。かつてNYの中心にそびえ立っていたビルは紛れもなく立派な人格を有していた。人格を持っているということは、つまり、このビルは生きていた。WTCと聞いて真っ先に思い浮かべるのはアメリカ同時多発テロだ。理不尽なテロによって多くの人の命が奪われ、WTCも砂埃の中に無残にも崩れ落ちた。ここから連想されるのは"死"である。罪なき一般市民、そしてNYを見守り続けてきたシンボル、それから世界の核として栄華を誇ってきたアメリカ、その中心として存在感を放つ"古き良き"NY。みんな死んだ。WTCは跡形もなく消え、911を境に世界は変わってしまった。
もうひとつ"死"を連想させるのは、無謀とも言えるフィリップの綱渡りである。命綱なしで、何百メートルも上空の強風吹き荒れる中をたった一人で渡りきる。本当に死と隣り合わせの営みだ。常人の理解を超えた行為なので、無益で有害だとの批判も避けられないだろう。
そんなふたつの"死"が印象的な本作が描くのは、正反対にまっすぐ"生"である。案外、ふだんの生活で自分は生きているんだと自覚することは少ない。死という極端な概念に直面したときに初めて生を実感することもある。フィリップの綱渡りパフォーマンスは死と隣り合わせであると同時に、というよりも、だからこそ、生が強く前面に出てくる営みだ。そしてパフォーマンスの成功に向けて全精力を注ぐ彼の姿はとても生き生きとして輝いている。いつだってポジティブに考え、自分の挑戦がうまくいくことを信じて疑わない。死を強く匂わせながら、かなり前向きな映画なのだ。
フィリップは自分が単なる大道芸人ではなく、アーティストなのだと主張する。大道芸人が提供するのはレジャーだが、アーティストが生み出す芸術はそれ以上の価値があり、人生を豊かにし、生きる意味を与えてくれる。芸術という営みは、高度に頭脳を発達させた人間に特有なものの一つだ(厳密に言えば違うかもしれないけど)。理性的な人間は本能に従うだけの生き方をしない。自分がこの世界に存在する理由を探し求める。芸術を楽しむには、本能的な生活を満足に過ごせるだけの余裕が必要だ。だからアートなんてものは人生の暇つぶしだという人もいる。その考えも間違いではないかもしれない。
しかし、フィリップの挑戦を見ればその考えも変わるはずだ。WTCの頂上で達成された偉大な記録。彼の挑戦は単なるビルに命を吹き込み、NY繁栄のシンボルとして、ひとつの人格を与えた。そして911テロは図らずもフィリップの偉業を未来永劫破られることのない永遠のものとした。なんとも皮肉な帰結だが、永遠に形を残し人々の間に受け継がれるということこそ、いずれ死を迎える人間が生を豊かにする上で芸術を重視する本質なのではないか。そう考えれば、芸術に全てを捧ぐことは決して無意味ではない。この世で何かを成し遂げ、自分が生きた爪痕を後世に残したいという切なる願い。フィリップの心のどこかにもあったんじゃないだろうか。
フィリップが仲間を集め、WTCでのパフォーマンスをゲリラ的に実現するべく綿密に計画を練る様はさながらクライムサスペンスで、本作を大いに魅力的な作品へ押し上げていた。計画直前に死の恐怖に怯えるフィリップも人間臭くて好きだ。
そしてパフォーマンス実行のその瞬間、フィリップが足裏でロープの感触を楽しむようにゆっくりと足を踏み出し、やがて軽快なステップで心配する周囲を挑発する様はスリリングだ。綱渡りという地味な動きをこれだけのエンターテイメントに仕上げる手腕に感心。山場だけあって、まるで自分も綱渡りをしているかのような緊張感とリアリティを得られた。手に汗握る、ホントに手がびちゃびちゃになってしまうほどの没入感。これは映画館じゃないと、という映像体験だった。
「生きる」と「死ぬ」、その間にある「芸術」。3つを軸に展開する本作はなんでも前向きに進む元気を与えてくれる爽やかで、ほろ苦い青春映画であった。そして、悲惨なテロによって命を落とした被害者と、いつまでもNY市民の心に残り続けるWTCへの鎮魂歌でもあった。
アノマリサ
東京アニメーションアワードフェスティバルでみました。なんと準備不足により字幕が準備できなかったということを窓口で知らされ、抜きうちリスニングテストを受けることに。払い戻しを受けた上で、タダで観れるから気にせず鑑賞することにしたのですが、責任者の謝罪もいい加減なもので、ヘラヘラしながら喋っていたのもいかがなものかと。この映画祭の運営の評判がよくないのも納得です。
愚痴はここら辺にして、映画の内容について考えたいと思います。字幕なしなので理解度は80パーセントぐらいです。勘違いがあったらすみません。
この映画はストップモーションによるアニメーションで作られています。主人公は社会的にもそこそこ成功し、名声もお金も家族もある中年男性のマイケル。しかし生きることにつまらなさを感じています。特に問題なのが、自分以外の人の顔と声が全部同じに感じられてしまうこと。男も、女も、子供も。みんなオッサンの顔と声にみえてしまいます。主人公もずっとそれに苦しめられてきた。これは人生になんの楽しみも見出せなくなってしまい、他人に対する興味がなくなってしまった彼の態度の表れといえるでしょう。現に彼は妻との関係もうまくいっていません。
しかし、そんな彼の目の前に「運命の女性」が現れます。名前はリサ。他と違う、彼女自身の声がしっかり聞こえてくるのです。顔も、女性そのもの。マイケルは、ついに自分の人生に光が差し込んだと言わんばかりに猛アプローチを仕掛けます。もともとマイケルのファンだと言っていたリサもそれに答えます。彼女はじぶんの顔にコンプレックスを抱いており、身体にあるアザを見せたがりません。繊細で楽しい人なのに、内面は傷ついている。だから殻に閉じこもりがちになっています。そういう内向きなところにいじらしさや愛くるしさを感じたのでしょうか。マイケルはどんどん彼女にハマっていきます。
マイケルはリサをホテルの自室に連れ込み、最終的にセックスまで持ち込みます。このシーンがすごい。人形劇なのにエロいんですね。お互いがお互いの気持ちを確かめ合うように肌に手を滑らせ、やがてひとつになっていく。とても官能的で、心動かされる場面です。太った中年同士のセックスをここまでロマンチックに描けるのは、ある意味、アニメーションだからでしょう。全く新しい可能性を感じました。
夜が明けてマイケルはリサに婚約を申し込みます。50過ぎたオッサンとは思えない情熱です。リサには妻と離婚することまで約束しました。なのに、マイケルはリサと朝食をとったときにアッサリ気持ちを翻します。彼女がグチャグチャ音を立てて食べることに苛立ちを覚えてしまい、幻滅したからです。そんな些細なことから、彼はリサを捨ててしまいます。なんとも後味の悪い終わり方です。
非常にこじらせたお話じゃないでしょうか?結局のところ人は独善的で、自分のことしか考えていない。特にロマンチストなマイケルは相手を思いやるなんてことはせず、自分の理想を相手に押し付けるだけ。思い通りにならなければ、もう終わりだと絶望してしまう。自分の理想にぴったり合う人間なんていないでしょう。関係をもつ上でガマンしなきゃいけない部分が必ず出てくる。それができないマイケルはどれだけ多くの人に会おうとも生きている甲斐がないのかもしれません。おそらくマイケルは一生自分を不幸に思って暮らすでしょう。なんとも意地悪な、大人のためのおとぎ話でした。
ラスト•アクション•ヒーロー / 映画愛の溢れたコメディ
ハリウッド映画界きっての人気者、アーノルド•シュワルツェネッガー。オーストリアからボディビルダーとして渡米してきた経歴もつ彼の絵画の世界から飛び出してきたかのような迫力ある肉体とそれによって生み出される無敵の風貌は、強いヒーローを愛するアメリカ国民のハートをつかんで離さなかった。私生活のゴタゴタや州知事時代の様々な問題がノイズになることもあったが、それでも彼はアクション映画のナンバーワンヒーローであり続けている。
そんな彼を主人公に据え、パロディとオマージュを詰め込み、アクション映画ファンならクスリと笑ってしまいたくなるお手軽なアクションコメディに仕立て上げたのが本作。アーノルド•シュワルツェネッガーはなんと本人役だ。映画世界内でも大スターの彼が主人公を演じるアクションムービー(これまた紋切り型で安っぽい)にファンの少年が魔法の力で迷い込んでしまうというのが主なあらすじ。
とにかくメタ目線で捉えるちょっぴり皮肉っぽい笑いが魅力である。ハリウッド映画にありがちな御都合主義を、現実世界の人間が突っ込む。観客目線であるあるネタを攻めるのでとても楽しい。特に有名なところとして、ターミネーターがスタローンになっているポスターが登場する場面があるが、これは二人の関係性について知っているとますます笑えてくる。こういった小ネタは背景知識をたくさん持っていればそれだけ様々気付けるんじゃないかと思う。
しかし一方で本作は惜しい部分もある。ドタバタコメディにしてはストーリーが複雑、というか整理しきれていないため、中だるみが激しいということである。特に悪役に関しては、彼の面からメタ的なギャグを挟む機会がなかなかないためか、単なるステレオタイプのつまらないキャラクターにとどまってしまった。主人公の二人がお互いのいうことを信じ、助け合う関係になるまでの筋も少々ゴタついておりスッキリしない。
結局のところコメディとしては楽しいけど、映画の世界に少年が飛び込んでしまうという凝った設定を生かした新鮮なアクション映画を期待していた自分にとってはちょっと物足りない内容だった。しかし家族で見られる安心のおもしろさなので、ただそのビジュアル的な楽しさ、ギャグを素直に受け止めればそれで十分なのかなとも思った。なんでも小難しく考えたがるこの癖をなんとかしなければ…。
WE ARE YOUR FRIENDS / EDMに賭ける青春
あらかじめ言っておくと、お金と時間の限られた現状で本作をみてしまったことを少し後悔している。基本的に映画館で観る作品は楽しむよう努力しているけど、「WE ARE YOUR FRIENDS」はその余地もなくただ退屈であった。どうしてなのか、まずはストーリーから見ていく。
全編を見通して感じたのは「サタデーナイト•フィーバー」のようだということ。決して裕福には見えない、有り体に言えば底辺に暮らす若者が夢を抱きながらも燻っている自分に不満を抱き、現実を忘れるため音楽に打ち込む。到底手の届きそうもないアッパークラスの女性に好意を抱き、グループ内の下っ端的な友人が事故で死に、その苦しみに耐えながらも前進することを決意する。刹那に生きる若者の悲哀を描いた両作はこんなにも共通点がある。
しかし「WE ARE YOUR FRIENDS」には残念ながら「サタデーナイト•フィーバー」のように惹かれる影もない。ただ退屈で間延びしている。おそらくいちばんの失敗点は主人公に共感しにくいことである。DJとして働くコールは女性にモテる。童貞拗らせたトラボルタとは大きな違いである。加えて金持ちの著名なDJに出会い、手取り足取り教えてもらい、その恩を忘れて女性を寝取るクズっぷりを発揮したと思いきや、友人が死んで落ち込んでいるので助けて下さいと泣きつく。一度は見捨てられたのに、なあなあでサマーフェスのステージに立つチャンスを得ている。たしかにコールは自分の未熟さを受け入れ、成長の兆しが垣間見えるものの、次なるステージへ跳躍するキッカケ自体は自分でもがき苦しみ掴み取るのではなく、他者から与えられるものである。単なるラッキーだ。そこに物語的なカタルシスはなく、「這い上がれるか」なんて言われても説得力がない。最初から最後まで恵まれたコールでは面白さがない。いっそコールが死んで、下っ端の友人がそれを叫んだ方が響いたかもしれない。
あとこの映画を見に来た人は何を期待するのだろう?ザック•エフロンのセクシーさを求めていた人は大いに満足できるであろう。しかしたぶん、多くの人はEDMのカッコよさを大スクリーンと大音響で楽しみたいと思うって劇場に来るんじゃないだろうか。しかし、その肝心の音楽シーンの演出が全く盛り上がらない。唯一、先輩DJの自宅のパーティーに呼ばれた際のダンスシーンは観る価値があった。コールが観客の心をつかむDJ術を語りながら、それを実践していくのだ。ここはなかなか興味深く、面白かった。他方、オープニングのクラブの場面はイマイチなにが行われているのかわかりづらい上、一曲フルで流すこともないから高揚感を得られない。ラストの友人に捧げる音楽も僕個人の感じ方ではあるけど、あまりかっこよくない。自然音をかき集めてメロディに生かす"独創性"が発揮されるシーンなのだけど、この境地に至るプロセスもそんなに自然ではなく、特に最後に感動を覚えるわけでもない。ものすごくぎこちなさを感じてしまった。
結局のところ、あまり好きなポイントも見つけられずに終わってしまった。平日昼の新宿に見に行ったらEDM好きそうなチャラめの客がたくさんいたけど、このテンポの悪い退屈な映画にガッカリしてないことを祈る。
貞子vs伽倻子/ 二大スター、夢対決!!
「リング」の貞子と「呪怨」の伽倻子と俊雄は日本映画界でもトップクラスのスターだ。特に貞子はゼロ年代サブカルチャーのアイコンと言っても過言ではない。そんな彼らがまさかの共演を果たしたのが本作「貞子vs伽倻子」である。ことしはDCとマーベルがそれぞれ二大ヒーローを対決させるクロスオーバー作品を後悔したが、その流れに乗るかのようなタイミングでの公開となった。どう考えても悪ノリのような内容だが、コメディを期待して行くとその本格的な怖さに面喰らう。
呪いのビデオでその効果を発揮する貞子。DVDの普及したいまビデオデッキのある家庭なんて珍しいのに、どうやって彼女を登場させるのか疑問に思っていたが、そこのロジックはとても上手く処理していた。まず独り身の老人宅、続いてリサイクルショップ経由で若者の手に渡り、大学教授の研究室やお寺の事務所でも再生される。いかにもビデオデッキが置いてありそうな場所で物語を展開している。そして最後、ビデオはネットに拡散される。貞子というキャラクターを現代に復活させるにあたってとてもスマートな話運びであろう。
貞子登場までは丁寧にホラーシーンを積み重ねて観客の恐怖と絶望を掻き立てていく。ドッキリ的な怖さより、次第に自分の置かれた状況のまずさに気づき、迫り来る死を避けられないジワジワした怖さがとてもイヤらしい。グロテスクな描写もほとんどないため、ホラーに好奇心のある小学生も安心して楽しめるのである。ここが本作のとても"偉い"ポイントだ。しっかりり恐怖を与えつつ、それを全員が楽しめるエンタメに結晶させている。本格的ホラー映画の風格を漂わせているが伽倻子の登場は少々唐突で、お祓いのシーンからはほとんどギャグに突入する。夏実への過激なお祓いを止めようとした友里が勢い余って祈祷師にビンタされるシーンは笑ってしまった。さらになんの説明もなく幽霊のスペシャリスト的キャラクター、経蔵が友里たちの前に現れ、物語はいよいよ観客の期待していた世紀の対決へ全力疾走することになる。
経蔵のキャラクターは物語のリアリティラインを著しく下げており、前半のテイストが気に入っていた自分にはちょっと残念な部分もあったのだが、彼の登場は「いよいよバトルが始まります!みんな楽しんでね!」というメッセージにもとれる。観客もここからは笑って楽しめばいいのだと気楽に捉えられる。予告編にもある「バケモノにはバケモノぶつけんだよ!」は名ゼリフだ。貞子に呪われた友里は伽倻子の家に入って彼女に呪われ、伽倻子に呪われた鈴花は伽倻子の家で貞子の呪いのビデオを観る。経蔵いわく、ふたりの呪いを同時に身に受けることで両者の呪いは相殺されるらしい。んなわけねーだろとツッコミたくなるが、みんなよほど切羽詰まっているのかすんなり納得している。かなりメチャクチャで、かなり楽しい。
ラストは衝撃的だった。ふたりの呪いは相殺されることなく、貞子と伽倻子が空中でぶつかって大爆発が起きる。そのインパクトで経蔵は身体を真っ二つに割かれてわりとあっさり死ぬ。大爆発の後に現れたのはクトゥルフのような巨大タコ。一旦井戸に封印されたのち、フタを突き破って貞子と伽倻子の融合体が登場。キーンという貞子が出てきたときの耳鳴りの音とア"ア"ア"ア"ア"ア"という伽倻子のうめき声が同時にシアターに響き渡り、絶望の叫びと共にエンド。正直見ていてなにが起きたのか、自分が見ているのはなんの映画なのかわからなかった。最高だった。自分の期待していた「貞子vs伽倻子」はまさしくこういうテイストなんだよと。観客の求める全てを詰め込んだ白石監督に拍手を送りたい。シアター内が明るくなって観客みんながその驚愕のオチに爆笑したり、微妙な表情を見せたり、苦笑いしたり、様々なリアクションを見せているのが楽しかった。レイトショーに見るのがぴったりなB級感に溢れる秀作だった。
アイアンマン2 / 父と子のときを超えた絆
「アイアンマン」「インクレディブル•ハルク」の成功を受け、本格的に始動したMCU。「アイアンマン2」ではSHEILD創設者ハワードスタークやSHEILDエージェントのブラックウィドウが登場し、一気に世界が広がる。「アベンジャーズ」に向けた布石を着々と打ち、徐々に盛り上がりを見せる本作の感想を今回はまとめたい。
まずはデザインについて触れたい。ヒーロー映画で"カッコよさ"は最優先事項である。アイアンマンのスーツは着実に進化している。冒頭のスーツケースから取り出して変身するシークエンスはまるで仮面ライダーのよう。シリーズ屈指の人気を誇るタイプではないだろうか。ウィップラッシュのスーツやブラックウィドウのコスチュームは自分好みのもの。特にウィップラッシュの機能はどう考えても重いし引きずるし実戦向きでは到底ないのだが、とりあえず見た目がカッコいいのでOKというのが良い。ブラックウィドウもSHIELDの存在を強く印象付けた。警備員をなぎ倒す華麗なアクションにも惚れ惚れする。
ストーリーについて。まずはトニーとローズの友情の進展を考える。ふたりはお互いの能力を信頼し、仕事でもプライベートでも正直に接する。このあとも続くアベンジャーズたちの戦いの中で、ふたりの協力は大きな役割を果たしてきた。「シビルウォー」での展開を知っているとちょっと切なくもある。いまでこそ、再確認したい関係性だ。
「アイアンマン2」の核心部分にも触れてみる。本作はヒーロー活動を開始したトニーが徐々にスーツに対する依存を深め、みずからのアイデンティティに向き合う話である。彼の人格形成に大きな影響を及ぼしたのが父ハワードとの関係性だ。ハワードは仕事に打ち込んでいたため家庭に構うことがなく、兄弟もいない一人っ子のトニーは寂しい子ども時代を送った。"父の愛情を受けられなかった"というコンプレックスは彼を傷つけ、彼は誰かに甘えることができなくなってしまった。だからトニーはなんでもかんでもひとりで全部やってしまう(幸か不幸か能力が高いのでそれができてしまう)のである。
心にそうしたしこりを感じてきたトニーだったが、ハワードが後世に残した映像やメッセージをみるうちに、じぶんは決して父に見捨てられていたわけではないと知る。ハワードは息子を信頼し、新元素を生み出すためのパズルの最後のピースを残しておいた。時空を超えた親子の愛と絆が目の前の問題を解決する。なにかと低評価を受けがちな「アイアンマン2」だけど、丁寧に読み解けばロマンティックで感傷的な良作だと思う。
トニーは父の偉大な力によって救われたと言える。しかしそもそも、彼が窮地に陥ったのも元はといえば父が蒔いた種のせいである。こんかいのヴィラン、イワンヴァンコは、父がハワードスタークのせいで没落したと信じている。「アイアンマン2」は二組の親子の因縁の対決にもなっているのだ。父への憧れやコンプレックスが正の方向へ向いたのがトニーであり、負の方向へ働いてしまったのがイワンなのである。2世代にわたる対決はMCUの世界観に深みを与えている。長い年月の中で繰り広げられる人間ドラマは、この歴史がまるで現実と並行して積み重ねられてきたかのような感覚を与える。「アベンジャーズ」への布石としての役割は十分果たしているだろう。