(旧)えいがのはなし

映画に対する感想を自由にまとめたものなのでネタバレを含むレビューがほとんどです。未見の方は注意してください!

サウスポー / "怒り"を抑え、爆発させろ!

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非常に評価も高く、期待していた「サウスポー」。自分は「ロッキー」シリーズが大好きだ。そしてボクシング映画にハズレなしだと思っている。その考えに間違いはなかったのだが、アレレ、ちょっと想像してたハードルを下回ってしまったぞ、というのが率直な感想。本心を言えば、ベタに熱い映画を観に行ったら、あまりにベタ過ぎて(ホントにぜんぶ想定の範囲内のことが起こった)ので逆に冷めた。中盤以降はずっと頭の中で「クリード」との比較をして、さっぱり映画に入り込めず。なのでこんかいはかなりマイナスな態度で感想をまとめる。

 

"怒り"を武器にノーガードでパンチを浴びせ続けるファイティングスタイルのビリー•ホープ。心優しい妻と聡明な娘に恵まれ、幸せな生活を築いていたが、そのキレやすさが仇となり起こした騒動で妻を死なせてしまう。失意のうちにあれよあれよと転落。娘も離れ、すべてを失う。再起を誓った彼は、下町のトレーナーに頼み込み、猛特訓。努力を積み重ね、タイトルを奪い、娘も取り戻してハッピーエンド。問題だらけの主人公が、あまりに大きな代償を払うことで、自分を見つめ直し、成長していくサクセスストーリーだ。娘との親子関係や、トレーナーとの友情、絆など燃える要素はたくさんあった。

 

特に娘役の子役はとても演技がうまく、何度も泣かされそうになった。「ママの代わりにパパが死ねばよかったのに!」という悲痛な叫びは観ていて胸が苦しくなったし、ラストにリングに立つ父親の身を案じながら必死に応援、共に戦う彼女の姿はとてもいじらしく、可愛げがあった。

 

フォレストウィテカー演じるトレーナーも、彼のボクシング人生の厚みを感じさせる貫禄で、映画を深いものにしていた。親分肌の面倒見のよさはビリーを惹きつけ、彼を変えていく過程に説得力を与えていたし、ふたりの間で徐々に信頼関係と闘志が芽生えていく様は熱く、燃えた。

 

しかしながら結局のところ、ベタなB級ボクシングに止まってしまい、少々薄っぺらく感じてしまったのである。なによりビリーが挫折し、立ち直る過程がテンポよく進むので、あんまり落ちぶれた感じがしない。気持ちいいぐらいどん底に落ちていくので見ている分には楽しいけど、ぜんぶがアッサリしているから這い上がるときのカタルシスに爆発力がない。小爆発で終わる。特にクライマックスのファイナルラウンドまでもつれる試合も、ちょっと物足りない。「クリード」の例のファンファーレからのファイナルラウンドに突入する号泣必至の演出を体験してしまうと、どうしても「サウスポー」は煽りが弱い。「ロッキー」や「ロッキー4」で似たようなテーマを描いているが、この2作の感動を超えることはできなかった。ここは好みの問題もあるので、しょうがないかもしれない。

 

余談だが「クリード」は一般人の話である。それなりに恵まれ、不自由のない生活を送っている。それなのに、何かが足りない。生きている実感がない。多くの現代人が抱えている問題である。そこでアドニスは本当にやりたいこと、命を削ってボクシングに打ち込み、日常への不満、コンプレックス、父への愛情と憎しみをリングの上で爆発させた。「証明してやる。俺は"過ち"じゃない」のセリフにその全てが詰まっている。こういう普遍的だがモダンなテーマが「サウスポー」には見出せなかった。デートムービーとしては満足のいく出来だが、「クリード」のような娯楽性を超えた、生きることそのものに対する感動がない。「クリード」の前に観ていたらなあ…途中からほとんど「クリード」のレビューになってしまった。反省。

Netflix 火花 第3話 / 芸人としての未来

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第3話はスパークスがオーディションに挑戦して失敗を繰り返す様が描かれる。テレビに出たいという気持ちは常にあって、チャンスも与えられているのに、全然思っているような結果を出せないもどかしさ。本当は自分の実力不足のせいなのだけど、イライラが溜まってちょっと周りが悪いような気もしてくる。

 

夜の吉祥寺をぶらつき、上石神井にある神谷の家まで歩く場面は情感にたっぷり溢れている。長回しによって夜中の街の独特の緊張感や冷たさが画面を介して伝わってくる。手持ちカメラのブレが上手くいかない現実を忘れたくて酒に頼る徳永の心情とリンクしている。どことなくぼんやりした雰囲気の映像が酔っているときの感覚に近いようで堪らない。

 

徳永にとって神谷とその彼女と一緒にいるときが最も温かく、心休まる時間のようだ。先輩の家の布団に包まるとき、夕飯に招かれて一緒に鍋をつつくとき、初詣に3人で出かけるとき、徳永は安心しきった表情をしている。尊敬する人と大好きなお笑いについて本気で語り合う。自分を構成する全てが周りに揃っている気がして幸せなのだ。

 

徳永は神谷に安らぎを覚えるが、一緒にいて心が落ち着かないときもある。終盤、神谷はオーディションで居眠りする審査員に悪態を吐く。彼はウソがつけないし、自分が思ったことは表現しないと気が済まないのである。この不器用さは徳永を不安にさせ、彼の心をぐらつかせている。徐々に顕在化してきたふたりの差異が今後の関係性にどう影響を及ぼしていくのか、注目である。

月に囚われた男 / 生きることの意味を問う哲学的SF

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ダンカンジョーンズ監督のSF作品。資源開発の技術が発達し、すべてのエネルギーを月の鉱石で賄うようになった近未来、管理者としてひとり月に取り残された男が採掘車の事故を機に衝撃の事実を知る。人間の存在意義にまで掘り下げた哲学的SFだ。
 
まず、この作品のガジェットが秀逸だったことは触れておきたい。映像を見る限り低予算で作られているようだが、閉鎖空間でほとんど物語が展開するので安っぽさは感じさせない。薄汚れて埃や土を被った施設は実在するかのようだ。
 
ストーリーは序盤、地球に残した妻と娘に会えることを楽しみにしながら、ただひとり月で退屈な作業をする主人公の日常が描かれ、中盤に大きな展開を迎える。月でひとりぼっちのはずが、もうひとりの人間、しかも自分と全く同じ容姿の男と出会ってしまうのだ。じつは主人公は経費削減のために作られた使い捨てのクローンに過ぎず、自分は数年ごとに死に、別の自分に入れ替えられていたのである。再会を楽しみにしていた妻も、クローン元の自分本人と幸せに暮らしている。主人公は月で生まれ、死ぬ事が最初から運命付けられていたのだ。
 
こんな状況に置かれたら、誰だって絶望するだろう。人生の意味がぜんぶ否定された気分になる。まるで物のように扱われ、将来は捨てられる。信じてきた世界はまるまる嘘で、地球に帰る楽しみも、生きる糧になってきた美しい思い出も、フィクションなのだ。バカバカしくてやってられない。自分がこの世に存在し、しっかり世界に根付いているんだという実感が得られなければ、生きることなんて楽しくないだろう。誰ともつながりがなく、ただ孤独に時間を潰すだけの生に耐えられる人間なんていないはずだ。
 
しかし、ふたりの主人公=ふたりのサムは現状を打破すべく努力する。自分の人生はぜんぶ嘘だった…ならばその嘘を暴き、利用されてきた権力者たちに噛み付いてやろう、そしてリアルな人生をこれから築いていこうじゃないか。月に取り残され、なにも与えられていない状況でこの前向きっぷり。半ばヤケクソではあるけど、未来を諦めたら生きることに甲斐がない。サムのポジティブさに感動した。諦めが悪くていいんだ。泥臭くもがきまくって幸せを掴もうとする努力だけは何があっても捨てちゃいけない。全体的にダークで鬱屈とした雰囲気が漂いつつも、観た後なぜか清々しい気持ちになれる理由は、常に前を向き続けるサムの活力にあるのだろう。
 
ラストでは死期を悟った"最初"のサムが自分の命を犠牲にする代わりに、"二人目"のサムに全てを託すことを決める。自分は絶望の中、不幸のどん底で死ぬことになる。それでも、もうひとりのサムには幸せな余生を過ごしてほしいと強く願う。切ない。切なすぎる。だけど、"最初"のサムにとってはそれが最善の選択である。愛する妻や娘を自分の手で幸せにすることはできなかったけど、せめてもう一人の自分だけは救いたい。それはこの世に自分が生きていたことを示す証になる。これからはふたりのサムがひとつの肉体に宿り、ともに生きることになる。ある意味、それは究極の自己愛、ナルシズムなのかもしれない。

オズの魔法使 / いつまでも色褪せない魔法の世界

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 まず、これが1939年の映画ということに驚きである。当時としても珍しいフルカラーでの製作。原色を散りばめたカラフルな映像は刺激的で見ていて疲労するが、現実離れしたオズやエメラルドシティの世界観にピッタリだ。カラー撮影なので"黄色いレンガの道"がしっかり黄色である。白黒じゃない。その美しさは2016年の現在で見ても素晴らしい。第二次世界大戦開戦の年にこのクオリティを作った国と日本は戦ったんだと考えると、ずいぶんムチャをしたんだなあと思ってしまう。

 カンザスに住む主人公のドロシーには肉親がいない。育ての親も自分を大事にしていないように思える。虹の向こうにもっといい世界があると夢見る少女は、嵐の夜に、魔法の国オズへ飛ばされることになる。そこで出会うのは知恵が欲しい案山子、心が欲しいブリキのロボット、勇気が欲しいライオン。ドロシーをカンザスへ戻す方法を知る魔法使いに会うため、4人はエメラルドシティへ向かう。彼女たちは様々な困難に出会うが、仲間を思い、知恵を出し合い、勇気を振り絞って問題を解決し、最終的しオズに出会うことができる。けっきょく彼からまともな話を聞くことはできないのだが、ドロシーたちは大切なことに気づく。案山子は優しいし、ブリキのロボットは頭がいいし、ライオンは勇気があった。そしてドロシーがいちばん好きなものは優しいおばさんと彼女が待つカンザスのおうちだということも。大切なものはすぐ近くにあって、それに気付けていないことも多い。もっと普遍的に言えば、しあわせなんて個々人の心の持ちようなんじゃないか。「やっぱりおうちがいちばん!」と唱えて3回靴を鳴らすと、ドロシーはおうちのベッドの上で目を覚ます。夢オチである。でも、大事なのは彼女がすべて自分の中で問題を解決したことであると思う。他人に誰か言われたわけではなく、ドロシーが無意識に見出した答え。内面の気づきだからこそ彼女は大きく成長したように見えるんだろう。

 音楽が素晴らしいのは言わずもがな。「虹の彼方に」は誰もが知っている名曲だ。切なくもロマンティックなメロディ、前向きな歌詞はいつ聴いても元気がもらえるし、感動する。各キャラが唄う「もしも〜があったなら」はちょっぴり物憂げで可愛らしいし、「オズの魔法使いに会いに行こう」は無邪気で子供らしい元気な歌。目だけでなく耳でも楽しめるのがこの映画のいいところだ。

 どうやら日本での知名度以上に英語圏ではこの童話は有名なようで(当然と言えばそれまでだが)海外のドラマや映画を見ていると「オズの魔法使」から引用したジョークをたまに見る。タイトルしか知らない…という人も多いが、勿体無いし今からでも遅くないのでこの傑作映画を見てほしいと思う。

インクレディブル•ハルク / MCU不遇の一作

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タイトルに不遇と付けてしまったけど、言うほど扱いが悪いわけでもない。ただ、ファンからも公式からも忘れ去られた地味な作品であることは間違いない。MCUが大好きでブルーレイで何度も見返す自分も、「インクレディブル•ハルク」だけは一度しか見ていない。エドワード•ノートンやティム•ロスなどキャストも演技派を揃えているのに、全く印象に残らない。あまり良かったところを覚えていないので、こんかいは少し文句が多めになるかもしれない。

MCU登場キャラクターの中では唯一、何度も実写映画化されているのがハルクというキャラクターだ。そのため「インクレディブル•ハルク」もアンリー版ハルク(未見)の存在を踏まえ、オリジンは冒頭の数カットで済ませてしまっている。この映画はブルース•バナー=ハルクのヒーローとしてのオリジンではなく、怪物になってしまったことによる悲哀を描くことに主眼を置いている。超人的な力を得たことによる苦しみは「スパイダーマン」を筆頭にヒーロー映画の定番テーマ。ハルクの場合は見た目自体醜く変わってしまうし、しかもその変化をコントロールできないので、フランケンシュタインのような異形の者の置かれる立場に寄り添った内容になっている。

ここからは不満が続く。たぶん自分がこの作品にいちばんに感じてしまう違和感はバナー博士がエドワード•ノートンであることだ。MCUを「アベンジャーズ」から見始めた身としては、マーク•ラファロ以外のバナー博士に抵抗感がある。どちらかというと細身のエドワード•ノートンが緑色のゴリラになる方がキャラクターのコンセプトとしては正しいのかもしれない。けど、彼は最初から気性の荒そうなイメージがあるので、ゴリラ化してもなんとなく納得がいく。温厚そうなマーク•ラファロが制御もできず街をメチャクチャにしてしまう方がやっちまった感が出て切ない。ここは完全に個人的な趣味だし、なによりキャストの変更も大人の事情によるものだから仕方のないことではある。

ただ逃避行劇としても地味で抑揚が少ない。「キャプテン•アメリカ/ウィンター•ソルジャー」が非常にサスペンスフルな政治スリラーを展開していたのに対し、「インクレディブル•ハルク」はうじうじとバナー博士が悩む様を見せつけられている気がして受け付けない。ヴィランのアボミネーションも正直あまり存在感がなく、ラストのハーレムでの戦闘に至るまでの過程にカタルシスを感じることもなかった。とにかく最初から最後までテンションが低く、暗いのである。

ベティとの悲恋要素はとても切ない。スティーブ×ペギーとは違った辛さがあって好みだ。ただキャスト変更もあってかのちのシリーズでこの設定が全く生かされていないのは悲しい。気付いたらナターシャといい感じになっていた。立ち直ったのか、部内恋愛に切り替えたようである。かといって本作の設定が完全に無視されているかというとそうでもなく、「シビル•ウォー」ではロス将軍が登場。このキャラクターはフェイズ3で大きな役割を果たしそうなので楽しみにしている。

 

ストーリーの細部に関する記憶が曖昧なので、少々抽象的な感想になってしまった。散々文句を言ってしまったけど、これを機に見直すのはアリかもしれない。

アイアンマン / MCU神話の始まり

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これから定期的にMCUシリーズの作品のレビューを順を追って書きたい。1本目はもちろんシリーズ1作目にして今なおトップレベルの人気を誇り続ける「アイアンマン」である。

「アイアンマン」公開当時、今や現代の神話と表現しても差し支えないMCUという壮大なシリーズ構想は固まっていなかった。最終的には「アベンジャーズ」を結成する野望はあったようだが、その実現は「アイアンマン」の成功にかかっていた。主演に一度薬物問題で落ちぶれたロバート•ダウニーJr.を起用し、X-MENスパイダーマンに比べると知名度の低い(2番手とも揶揄された)ヒーローを、これまで映画製作経験のない会社が作ってうまくいくのだろうかと当時は懐疑的な目が多かった。結果はご存知の通り。ヒーロー映画史に名を残す大傑作が誕生した。

本作がMCUを考える上で大切になってくるのは、シリーズの礎となるリアリティラインの提示に成功した事実であろう。先述のX-MENスパイダーマンは単なるアクション映画の枠にとどまらない面白さが人々の心を掴んでいた。キャラクターの内面を掘り下げたエモーショナルなストーリーに加え、コミックのデザインをベースに現代風にアレンジしたヒーローたち。マーベルスタジオはそれらを上回る全ての要素をハイクオリティなレベルで提供した。現実にヒーローはいないのだから、その存在に説得力を持たせ、リアルだと観客に感じさせるのは至難の技である。しかしマーベルスタジオはMCUの世界観を絶妙なバランスで組み立てあげた。我々の住む"現実"の世界をたしかに感じさせる雰囲気。その延長線上にMCUの世界を構築した。本作はアフガニスタンでトニースタークがテロリストに誘拐されるところから始まる。掴みは中東の現状を反映した設定だ。だから観客もほとんど現実に起こっている物事と同じ感覚で映画の世界に入っていく。また、それでいてコミックらしい快活さを保っていることももう一つの魅力である。サムライミ監督のスパイダーマンシリーズがその先駆けであるが、クリストファーノーラン監督のダークナイト三部作ではダークテイストで大人向けの雰囲気を漂わせるアメコミ映画が作られ、その後の映画やゲームに多大な影響を与えた。しかし、MCUはその流れに新たな風を吹き込んだ。あくまで明るく、軽いジョークもたくさん挟んだ陽気な作風を志向したのだ。両者とも良さはあるけど、自分はMCUの雰囲気が好きである。

MCUのスターターとしての偉大さはここら辺にとどめておいて、「アイアンマン」自体の良さについて考えたい。アイアンマン/トニースタークがトップレベルの人気を誇る理由はなんだろう?やはりスーツのカッコ良さは真っ先に挙げられるだろう。仮面ライダーの返信シーンのような装着シークエンスはもちろん、それをトニーが己の頭脳と技術で手作りしてしまうのもそそられる。機械いじりのワクワクが存分に伝わってくる。「自分もなりたい」と思わせるのはヒーローに大事な要素だけど、アイアンマンは誰がそのスーツを着てみたいと思わせる魅力がある。

あとトニースタークのキャラクターも人気の原因だろう。彼は深刻な状況でもジョークを飛ばすことを忘れない。そのユーモアは見ていて楽しい。ナルシストで傲慢なところもありながら、優しい心を持っていて、時に傷つきやすい。鋼鉄のスーツに身を包みながら、その内側には繊細すぎるほどナイーブな人間がいるというのが面白い(繊細だからこそ固いスーツで自分をガチガチに守っているとも言える)

本作はトニースタークが挫折を経験し(このあとのトニーの受難を知っていると放蕩三昧の頃の彼が恋しい)、ヒーローとして立ち上がるまでをテンポよく鮮やかに描いている。ヴィランのオバディアはウィップラッシュやキリアンに比べると地味な印象も受けるが、主人公トニーの成長にフォーカスするにはこの塩梅がちょうどいいのかもしれない。オバディアを中心とするエピソードは、2以降で明確になってくるハワードスタークという偉大すぎた存在と彼に対するトニーのコンプレックスの問題を暗示している。新たな挫折への伏線はすでに敷かれていたのだ。

テロリズムアフガニスタン、兵器輸出など、極めてアメリカ的な要素が強いのも「アイアンマン」の特徴。なんだかんだキャプテンアメリカ並みにその色は濃い。自分の売った武器に攻撃され、かつての行為を後悔するトニーの姿自体、冷戦時に反ソビエトというだけで武器をばら撒いた数十年後にテロという形で恨みをぶつけられたアメリカと重なる部分がある。テロだけに限らず未知の脅威が日々の生活に暗い影を落とす現代社会、人々がヒーローを求め熱狂するのは、そんな先行きの見えない現実に救いを求めていることの証なのかもしれない。

サウルの息子 / "映さない"ことのリアル

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 度肝を抜かれた映画だった。家の小さなテレビ画面では得られない体験。絶対に映画館という空間でないと楽しめない作品だ。4:3という画面比を最大限に生かした内容になっている。

 「サウルの息子」の題材となっているのはゾンダーコマンドと呼ばれるユダヤ人強制収容所で働かされるユダヤ人たちである。迫害の対象となる人たちが、迫害に加担させられるのである。冒頭は彼らが、シャワーと偽ってガス処刑室に送られたユダヤ人たちの遺体を片付ける場面から始まる。最初、見ている我々は何が起きているのかを認識できない。狭い画面の中に、まるでTPSのようにサウルの肩越しで閉鎖的な空間が映し出され、生々しい音と叫び声から徐々に事態を把握する。我々の見ることができない画面の外で何か恐ろしいことが起きている。直接映されるより怖い。全てを映してしまうと何もかも嘘くさく見えてしまう。だから、観客の想像力をかきたてることにより、おぞましい光景をリアルに植え付ける。全編この調子である。下手なホラー映画よりドキドキする。

 クライマックスでゾンダーコマンドたちが収容所を抜け出そうと反乱を起こす場面も非常に緊張感があった。全てが見えないから、観客も主観カメラに近い状態で映画世界に没入することになる。何が起きてるんだかさっぱりわからない。後ろから銃弾が飛んできてあっさり殺されるかもしれない。すぐ真横に死があることの残酷さを身をもって体感することになる。本当に凄い映画だ。

 ストーリーについても触れる。この映画は最初から最後までサウルが偶然見つけ出した息子の死体(それも本当かどうか怪しい)をユダヤの正しい方式で埋葬しようとラビを探し続ける話である。彼の行動は終始一貫していて、ビックリするぐらいブレない。宗教的背景も関わってきそうなので理解の及ばない部分もあるが、父が子を思う気持ちは普遍的である。せめて最期ぐらい…という悲痛な願い。到底叶いそうもない夢を追いかける。もしかしたらその時だけはいずれ待っている死の運命を忘れ、自分のやりたいことをやるという人間的尊厳を保てているのかもしれない。ジメジメしたコンクリートと鉄の牢獄の中にあってもより良く生きることを捨てない。少しでも希望を見出して(サウルは自分に対する希望は既にないかもしれないが)
残りの人生を意義あるものにしようとする。極限状態で生きる人の心理なんて絶対に理解できないだろうけど、そういう空間に置かれた時の人々の悲しさや虚しさにちょっとでも触れられたんじゃないか。人間としての全てを奪われてしまった収容所のユダヤ人たちの無念さを思うと、なんとも悔しい気持ちになる。